
明石将軍(2)
略歴と幼年時代 ![]()
一 明石将軍の略歴 [注]駐剳(ちゅうさつ)=任地に滞在すること。薨去(こうぎょ)=皇族または三位以上の人物の逝去。
年 月 日 事 蹟 元治元年8月4日
福岡に生る。
明治9年
13歳にて上京し、團尚静氏邸に寄食し、安井息軒の塾に入門す。
同10年6月
陸軍士官學校幼年生徒となる。時に14歳。
同14年1月
陸軍士官學校に入る。
同16年12月
20歳をもって陸軍士官學校を卒業し、歩兵少尉に任ぜられ、歩兵第十二聯隊附となり、丸亀に赴任す。
同17年6月
歩兵第十八聯隊附となり、豊橋に転任す。
同19年12月
戸山學校教官となり、上京す。
同20年1月
陸軍大學校に入學し、同年4月中尉に任ぜらる。
同22年12月
陸軍大學校を卒業し、歩兵第五聯隊附となり、青森に赴任す。
同23年
参謀本部出仕を命ぜらる。
同24年1月
参謀本部部員となり、第一局に属す。7月大尉に任ぜらる。
同25年4月
郡國子と結婚す。29歳。
同27年2月
ドイツ留學を命ぜられ、直ちに出発す。
同28年2月
日清戦争開始によリ帰朝を命ぜられ、4月帰着す。帰着後、近衛師團参謀仰付けられ、師團に従って宇品出帆、大連に上陸し、更に旅順口より台湾に至り、三貂角に上陸し、爾後各地に転戦して功あり。8月少佐に進級し、11月打狗出帆凱旋す。
同29年5月
参謀本部第三部員を命ぜられ、9月台湾、安南および東京地方に差遣せらる。
同30年2月
帰朝す。この時34歳。
同31年5月
南洋諸島へ差遣せられ、米國と比利賓(フィリピン)の戦争を観る。
同33年10月
北清事変のため清國に差遣せられ、12月帰朝す。著者は大尉にて随行し、将軍は中佐に進まる。
同34年1月
佛蘭西(フランス)公使館附武官仰付けらる。
同35年8月
露國公使館附武官仰付けらる。
同36年11月
大佐に進級す。40歳。
同37年2月
日露開戦せしをもって参謀本部附の辞令を受け、同時に御用これあり欧洲差遣となる。
同38年9月
帰朝仰付けられ、12月帰着す。欧州に在ること實に全5年なり。
同39年2月
獨逸(ドイツ)大使館附武官に補せられ赴任ぜしも日露戦守中金欧洲を股に かけ各地に競腕主張ょたのが擬げとなって同年十二月に輝朝し歩兵第七聯隊長となるo
同40年10月
陸軍少将に任ぜられ、第十四憲兵隊長となり、朝鮮に赴任す。この年春、國子夫人逝かれ、12月信子夫人と結婚せらる。
同41年12月
韓國駐剳軍参謀長兼韓國駐剳憲兵隊長に補せらる。
四43年6月
韓國駐剳憲兵司令官に補せられ、7月統監府警務総長に任す。而して8月には韓國併合を賓施せられた。
大正元年12月
陸軍中将に進む。49歳。
同3年4月
参謀次長に補す。
同4年10月
第六師團長に補す。
同7年6月
台湾総督に任ぜらる。
同年7月
陸軍大将に任ず。
同8年8月
台湾軍司令官を兼ぬ。10月24日正三位に叙し、男爵を授けられ、同26日福岡において薨去。11月1日遺骸を以て台湾に帰り、台湾総督府葬を行う。享年56歳。
二 幼年時代 明石家は藤原鎌足公に出て、代々偉人傑士を出して居る。明石氏を称せしは亀山天皇の朝藤原家長が播州明石に住せしためである。
家長五代の孫明石正風は、その娘をもって黒田職隆にめあわし、一子を挙げたが、これがすなわち元亀、天正時代の傑物たる如水公である。故に黒田家と明石家は主従関係のほか遠く姻戚闘係を有して居る。
明石元二郎の父は助九郎貞儀で、母は明石家の養女秀子である。元治元年8月1日次男として、福岡天神町(松本別邸の向い側)に生まれた。当時は千三百石の家であったけれども、父貞儀早世のため財産を消費しつづけて廃藩となったので、生活困難に陥り、家は人手に渡りて近親の邸内に起居するに至った。
母秀子は二児すなわち兄直、弟元二郎を教養するため、すこぶる苦心せられて居る。武士としての精神教育から論語の素読まで針仕事のかたわらに教えられたのである。
然るに元二郎の幼少年時代の腕白は一通りではない。一例を挙げれば7〜8歳の頃、余り悪戯をするため親戚の八代利英氏この腕白少年をカマスの中に封じ込め、土蔵の中に入れたことがある。然るに中では余り静かで泣き声もしないので、却って心配し、開けて 見れば別に悪びれる様子もなく平気できょとんとしていた。教養の任に当たっていた従兄の利英氏も、この少年を懲らす方法に困惑したくらいである。
しかし頭脳は極めて明哲で、智能人に勝れていた。風釆ははなはだ不潔で、いつも鼻汁を垂らし、涎(よだれ)を流していても、小学校では常に第一位である。
明治5年に小学校が始まったので年齢のそろわない学級である。だから12〜13歳の者も同級である。然るに元二郎は9歳でありながら第一位を占めていたので、その智能の優越と母堂の躾(しつけ)が行届いていたことが知らるる。
元二郎はまた、字を上手に書いた。あるとき当時の縣令、渡邉清が学校視察に来たので、学校では2〜3の生徒を選び、面前にて文字を書かせた。このとき元二郎もその選に入り、名誉ある揮毫をなし、「精神」の二字を大書した。
そのとき最後の一書、神の字の棒を引くに筆カ余って紙面を過ぎても少しも意とせず、縣令の休憩所にあてた青畳の上を墨痕淋漓(りんり)と書き通し、得々として居るのには一座のもの肝をつぶし、一驚を吃した。
渡邉縣令はその後、妻として加藤堅武(かたむ)の未亡人をめとった。この未亡人には連れ子の娘があったので、元二郎のこの度胸に惚れ込み、人を介して養子に貰い受けんと懇望した。けれども母堂はついに応じなかったという。
(西川虎次郎、1934.6.15)
(少年時代の明石将軍)
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