
明石将軍(3)
学校生活時代 ![]()
石田五六郎氏は当時海軍兵学校に学んでいたが、明治八年の夏休暇で福岡に帰省した。そのとき明石家を訪ね「元二郎君ももう十二になるから東京に出して勉強させる気はないか」と誘うた。母堂は渡りに舶と思い「それが出来ることなら是非願いたい」と頼みこんだ。また当人の将軍は「もし東京へ行って勉強されるなら嫌いなお酒飲んでもお香のもの食べてもかまわぬ」というのであった。
石田氏は帰京後これを團尚静氏に頼み、いよいよ話も決まり、翌九年春小西小五郎氏の帰省の際同伴して上京したのである。上京後は團氏に寄食し幕末の鴻儒安井息軒の塾に入学し漢籍を学んだ。この塾中にあっても腕白性は募るをも薄くなることはない。したがって年長者からひどく虐待されて、時には喧嘩し、ぎゅうぎょういわされても平気でいたという。
将軍の幼年生徒となったのは明治十年六月九日で、その動機は明瞭でないけれども当時の幼年生徒は官費であったことから考えると学資関係が主なるものであったろうと思う。
幼年学校は三か年卒業である。然るに将軍は入学せしとき十三歳未満であるから三年経過しても十六歳未満。したがって陸軍士官学校に入学することができないので一期後回しとなり、翌明治十四年一月に入学した。
陸軍士官学校の卒業は明治十六年十二月二十四日で同時に陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第十二聯隊(丸亀)付に補せられた。時に満十九年八か月という青年であった。
陸軍大学校の入学は明治二十年一月二十九日である。本来大学校は隊付後満二年を経過すれば入学し得るのである。よって幼年生徒時代の同期たる大井菊太郎(大勝成元)、仁田原重行(大将)等はすでに一、二年前に入学して居る。然るに将軍の入学遅延せし理由は丸亀隊付後豊橋の第十八聯隊に転任したり、あるいは戸山学校教官となったりしていたためであろうと思う。すなわち贔屓(ひいき)の引き倒しである。
学校生活間における将軍の悪戯は相当多く人の記憶に存して居る。その主なるものは茶目式である。またきたないこと、洟をたらすことも士官学校時代まではあったようである。しかし学科の優秀であったこと、殊に漢文に長じていたことは人の許すところであった。ただ学科ばかりでなく射撃術にも長じ、機械体操、乗馬術ともに得意であった。また図画の綿密にして正確なることは何人も嘆賞するところであったが、しかしその用紙を汚しているのもまた無類である。すなわち垢だらけの手でいぢり、時には洟を落すので紙は眞黒になって居るにも驚かされた。
この頃の陸軍大学校は兵学以外に数学、地、歴等も教授していたが、将軍はすべてについて優秀である。特に戦術と数学は最も得意とするところで、数学の如きは砲工兵科の者をも刮目せしむるありさまであった。これらを見れば如何に将軍の頭脳の明哲と思慮の周密であったかが想像される。しかも他の人の如く閉じこもって勉強する如きことはない。
ただ一種の癖となって居る紙屑を咬みながら書見するくらいである。すなわち将軍は外観粗野にして無頓着なるも、中心には玲瓏玉の如き智能を蓄えていたことが知られるのである。
(西川虎次郎、1934.6.15)
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