
明石将軍(4)
参謀本部時代(1) ![]()
明石将軍は明治ニ十二年十二月九日陸軍大学校を卒業し、歩兵第五聯隊付に補せられ、隊付勤務一か年ののち参謀本部出任を命ぜられた。これが将軍の師団長になるまで全二十五年間 (うち十か月間が聯隊長)参謀生活の踏出しである。以後三年間、参謀本部第一部員として勤務した。
予は陸軍士官学校卒業後、約二か年間、宇都宮太郎中尉(のち大将)および同期生の志田安吉とともに家を借りて男世帯の生活をして居た。その際、将軍および根津一氏は宇都宮氏のもとに度びたび遊びにきたのである。談話の多くは東亜の問題で、如何に当時の空気が東亜、特に支那に着目されていたかが知らるる。宇都宮大将も智略に富んだ偉丈夫で参謀本部に入ったのち、インド辺に旅行したこともある。また将軍が日露戦争中欧州で活動されたとき宇都宮大将軍は大佐で英國公使館付武官であった。だから英國内のことは宇都宮大将の手腕を借られたことが少なくない。このことは後章に詳述する。
また、最近のことだが、当時福岡の在京先輩としては将軍のほか武谷水城軍医正、古市龍八郎大尉、大庭雄貴中尉、予など一、ニ少尉くらいで極めて少ない。また全国を通しても高級としては草場憲輔中佐、門司和太郎少佐が大津、豊橋に居られたくらいで、大藩たる福岡の出身武官としては甚ださびしかった。そこで在京の武官相集い、何とかして奨励の方法を講じようというので、明石将軍は古市氏らと懇談を遂げ、ついに今日も現存し居る筑前郷友会を組織し、筑前出身将校は皆若干の寄付金をなし、これをもって後進者の貸費に充つることになったのである。今日はその組織など多少変更されて居るが、その発起はこの時である。
明治二十七年二月に大尉を以てドイツ留学を抑付かった。将軍の外國語にたくみなることは有名なもので、幼年学校の生徒時代はフランス語を学んでいたが、その頃から同年生の最上位であった。ドイツに来ては、先づドイツ語の習得が第一の仕事であったが将軍は僅々一年足らずの間にすっかり上達したのである。しかし日清戦争が起ったため帰朝を余儀なくせられたが、実戦に参加されるというので勇躍して帰朝したのが翌年四月三日である。
帰朝後直に近衛師団の参謀を拝命し、四月十日宇品港を出帆、十三日柳樹屯に到着するや、講和ということになった。ここにおいて一旦は落胆したけれども、講和条約の結果、台湾島を帝國の領土内に加へられ、しかも同島内は匪徒蜂起し四方擾乱の状態だというので近衛師団をその討伐に向けちれた。
近衛師団の先登部隊は五月下旬旅順口を出発し、同月二十九日台湾北部の一角三貂角(サンショウカク)に上陸した。師団長は北白川宮能久親王殿下で、将軍は殿下の手足となりて補佐申し上げ、各地に転戦して黒旗軍を撃破し全台靖定(せいてい)の上、打狗を出帆し凱旋の途に上ったのは十一月二十日である。
この間、殿下は御徒歩にて三貂大岑を越えさせられ、基隆に出でて御南進の途中御不例に罹らせられ、御療養の御暇もなく御不例を冒し、竹輿に召させられて諸部隊を指揮あらせられた。しかも暑気は強く瘴気池沼に満ちて居る。殿下は御病気のまま台南に着せられ、汚穢忍びがたき一家屋に安臥御静養あらせられた。けれども遂に薨去(こうぎょ)あらせられたのは畏多き次第である。この間将軍は幕僚として御供申上げたのであるから、のち台湾総督となり、巡視して台南に到りしとき、殿下の御座所であった小家屋に到り感慨無量、低回去るに忍びななかったのも当然である。
この間に一挿話がある。上陸間もなく三貂角より瑞芳に山越えの際、暫時休憩したとき殿下のお許しがあって上衣をぬいでくつろぐことになった。然るに将軍は上衣を取らぬ。平素は「いの一番」に御免を蒙るのであるが、この日はそうでない。他の幕僚もその行儀よさに驚いた。畏多くも殿下のお言葉さえかかったので、いよいよ上衣を取らねばならぬことになった。しかし将軍は上衣を脱げば下は素っ裸である。如何に頓着のない将軍も殿下の御前で素っ裸は恐れ入った。これには一同は勿論、殿下におかせられても破顔一笑遊ばされたということである。
将軍は、この征台間八月十六日に少佐に進級し、引きつづき参謀職にあった。凱旋後約半年間は近衛師団司令部にあったが、翌年五月再び参謀本部に復帰し、第三部員を命ぜられた。
(西川虎次郎、1934.6.15)
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