明石将軍(5)

参謀本部時代(2)

 

 明治二十九年九月、川上参謀次長(操六)は台湾、仏領印度の安南、東京地方を視察 きれた。そのときの随行者は将軍である。出発前一タ、川上次長は将軍を招き心中を披瀝し、帝国の将来を痛論し、諄々として誨ゆる所があった。この旅行は台湾を振り出しに仏領印度支那よりシャムに入り、さらに南清地方に渉って詳細に視察を遂げ、四個月にして帰朝された。後年将軍が台湾総督の印綬を帯びられしとき頗る得意の色ありしは将軍が此の視察旅行中に得られし抱負と川上将軍の遺策を実行するのに好機を得られたからであると思う。

 予は明治三十一年十二月に参謀本部に入り、参謀総長川上大将の宅に始めて伺候したとき、大将は予の将軍と同郷なるを知り、将軍につきその卓越して居る点を挙げて賞揚せられた。このとき予は一層将軍の優才を知り、かつ上長の深き信頼を受けて居られることを知ったのである。

  明治三十一年五月将軍は南洋諸島に差遣せられ、西、米戦争視察の途に就いたのである。現今比律賓(ヒリッピン)獨立問題などが世界に噂されて居るから西、米戦争の概梗を述べよう。

 西暦一八九八年四月米国は玖瑪(キウバ)の独立を援くる名目を以て西班牙(スペイン)と開戦した。このとき米国提督は数隻の艦隊を率ゐて香港にあったが、大統領マッキンレーの命により麻尼拉(マニラ)湾に急行し交戦数時間にて同湾内の西班牙艦隊を全減せしめた。当時、比律賓の島民は西班牙の悪政を呪うていたから、米国のこの大捷を見て大いに米軍を歓迎した。米提督デウエーは比島志士の首領アギナルドを招致し、速かに西班牙の勢力を比島内より駆逐し、独立すべきことを慫慂(しょうよう)した。是に於てアギナルドは米軍に内応したので米国の麻尼拉攻撃は難なく奏功したのである。

 然るにその後に至り米国の態度豹変し、比島民の渇望せる共和の理想は破壊せられ、再び外人たる米国の麾下に屈服せざるべからざるに至った。是に於て米国と比律賓の戦争が起らざるを得ざるに至ったのである。

 将軍はこの戦争を観るため差遣せられたが、出発前約して曰く「麻尼拉陥落せば、単に『マニラ』と電報しよう」と。これは高価なる外国電報料を節約するのと、一面には他国に知れないうちに日本に通知しようとの考えからである。

 出発後は先づ新嘉坡(シンガポール)に足を止めて麻尼拉と連絡し、その状況を見ていたけれども、どうも隔靴掻痒の感があるので直接麻尼拉に行くことを決心し、「ツーマニラ」なる電報を友人に托し、直ちに出発した。然るにその友人以為らく「ツー」は余計の字だ。「マニラ」だけにて明瞭するだろうと、将軍が出発前に約束せしことを知らないから「マニラ」と電報した。東京では約束の通り麻尼拉陥落と信じ、直ちに号外を出し東京市中ばかりでなく全国を騒がせたことがある。しかし、これは将軍の誤りでなく受托者の親切心から来た過誤であった。

 明治三十三年五月に北清事変が始まった。将軍は少佐で参謀本部に在ったが、参謀本部は大本営事務を取扱うととになったので将軍も矢張り参謀事務に服して居た。然るに露国は国匪蜂起と称して架設中の南満洲鉄道の要所々々に軍隊を配置し満洲内には一名の外国人も容れない。是に於て参謀本部は有事の際を顧慮し、山海関付近を偵察し置く必要が起ったので、将軍の派遣となった。

 これに随伴した者は筑紫少佐(後中将熊七〉および予である。時は十月二十二日先づ天津に到り、三、四日間天津太沽付近を視察し、海路山海関に至りて滞在約二十日、あるいは北方あるいは南方を視察し、秦皇島、洋河口をも実視したが、独り錦州に行くことを露軍が許さない。而して風説によれば露軍は錦州に兵器糧食を蓄積して居る疑もある故に是非錦州および連山湾を視察する必要がある。

 是に於て将軍は仏国将校を介して露軍に交渉し、日本将校五名だけ錦州に行き得る承諾を得て之を実行したのである。滞在間、将軍の犀利なる視察眼と判断力、ならびに外国語に巧なることには深く感じたのである。

 山海関付近の視察を終り、十一月中旬北京に向て出発した。然るに鉄道は所々破壊せられて未だその修築を終って居ないので汽車と乗馬と舟を併用し、三日間にして天津に到り更にジヤンク、支那馬車および徒歩を併用し四日を費して北京に着した。北京の滞在は僅に四日にして帰途に就き、往路を再び山海関に帰り便船を侍って帰朝したのが十二月十九日であった。

 この間、将軍の努力と健啖には驚かされた。特に灸(い)り豌豆を嚢に入れて持ち来たり、時々これをかじって居られたが、これは某薬剤官から教えられた胃の療 法であるとのことである。この旅行中、将軍は中佐に進級せられた。 

(西川虎次郎、1934.6.15) 

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