明石将軍(6)

公使館付武官時代

 

 明石将軍は明治34年1月、佛蘭西公使館付武官に補せられ、駐在員取締を兼務せられて巴里に赴任した。将軍の住んで居る室は四階で眺望の可なるに自慢して居られたけれども、不便は甚しかった。将軍も此頃は余程風采に注意されて居たようで、昔の不潔なところはなく立派な紳士であった。また熱心に佛国語を研究せられて、何等の差支えもないまでに話もされたのである。

 予の英国に行ったのは翌35年6月で、その翌7月佛国の大祭日たる14日には巴里に至り将軍の世話を受けたのである。また其れ翌8月9日英国皇帝エドワード七世が戴冠式を挙げられるので、将軍は態々倫敦に来られた。此時もまた予等のためなにかと注意された。 将軍が巴里にて作られた詩に左の如きものがある。

 都人追景弄暇余
 満街紅燈映翠輿
 吾愛英雄千古月
 凱旋門下読兵書

 明治35年8月15日には露西亜公使館付武官に転任せられた。着任間もまく記念として撮影し、これに左の詩を題せられた。

 婦女張良定大謨
 猿郎藤吉畫雄図
 何妨異日雲台上
 明石将軍容貌愚

 これは戯作であるけれども自ら抱負の大なるものあるを見得る。

 此頃極東の風雲は自ら急なるものがあった。此際露国公使館に居るのであるから、将軍が露語を研究すると同時に露国の内情調査に夜を日に継いだことは勿論である。将軍の助手格で居た塩田武夫(当時少佐後大佐)と共に諸新聞雑誌を精読し、風雲の向かうところを深く窺って居た。

 掩耳他家和戦論
 鎖門唯作読書人
 徐期大業晩成日
 先祝今年四十春

 これは36年1月元旦の詩であるが、大業の成功を私(ひそか)に祈って居たことが知られる。

 露都滞在中は忠実な一老婆を傭うて、炊事はもちろん生活万端の世話を任せて居て、また時々露国の内情探究の手先にも使って居た。此婆さん甚だ強慾で、生活用の雑貨を買込み、密に之を近所のお神さんたちに売りつけ、その代金は自ら着服して居た。将軍の友人これに気づき、将軍に注意したけれども将軍は一向平気で居た。

 またある時、紙屑籠から十留紙幣が出たということを聞きし公使館員が、これを将軍に揶揄(やゆ)すれば、将軍はこれを打消して 居られたけれども事実らしい。要するに将軍の金銭に無頓着であったことは一生を通じて変らなかったのである。

 ある時、国際的の宴会席上で一ドイツ士官が将軍に対し「貴官は何国と何国の語を話すか」と尋ねた。普通の人なれば己れの話せる丈を並べ立つるが、将軍はそうでない。「佛語を少々やった丈だ」と答えた。ドイツ士官は語を継ぎ「ドイツ語はどうです」と重ね て問うたから「駄目です、一向解りません」と云うた。そこでドイツ士官は安心して、露西亜将校とかなり重要な機密事件をドイツ語で語り合っていたのを将軍は少しも解せない風をして耳を澄まし残らず聞き取ったことがある。

(西川虎次郎、1934.6.15) 

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