明石将軍(8)

日露戦争時代(其二)

 

 明石将軍が露国不平党の巨頭を知り、彼等と交遊を開くに至りし端緒は、留学生中田信太郎氏を通じ、露語教師として傭い入れた露国大学生プラトンからである。

 将軍は露都を引上げ瑞典の首都ストヅクホルムに転ずるや、到着の即日かねてその名を知れるフィンランド憲法党の首領にして、この地に世を忍んで居るカストレンに密書を送り、会見を求めた。然るにその使者は空しく帰り来りて曰く「カストレンは確かに居た。然るに彼いう、明石という日本軍人から書面を受くる理由はない。多分人違いであらうと突き返された」と。将軍もこれにはがつかりせざるを得なかった。

 ここに於て将軍はホテルの一室に閉じこもり次に取るべき方法を熟考中、その日の夕刻思い設けぬ一人の来訪客があった。客は高帽をいただき、白髯を垂れた堂々たる紳士風であるが、一封の書を差 出したのでこれを開くとはからずもカストレンの親友コンニー・シリヤクスであった。即ちカストレンに代りシリヤクスが来訪したのである。

 シリヤクスは露国革命党の別働隊として編成せしフィンランド反抗過激党の首領である。彼は徐々に口を開いて云う。

「貴名を以て過日伯林(ベルリン)より、また先刻便をもってカストレンの許に遣わされた書状は正に到着した。然し貴下に対しカストレンを紹介したのは何人でしたか。また先刻の貴下の使は果して安全なる人物であるか。今日の境遇として萬々安全を期せねばならぬので不本意ながら貴書を返した次第である」

 かくて将軍も一通り挨拶せられ、簡単にその意の在る所を述べられしに、彼は語を更め

「同志の会合についてはカストレンも予も大いに希望するところである。然し旅店では危険である。請う明日午前11時旅店前に待たれよ。同時刻に必ず旅店前に停止する馬車がある。予は馬車内に居るから貴下は直にこれに同乗されたい。見らる如く当地は目下連日の降雪だから幌を下し人目を避けて安全に会合地に行き得る」

 その用意の周到なるに将軍もひそかに驚き、再会を期して別れ、翌日時刻の至るを待ちしに約の如く一輌の馬車が来たので同乗して会合場に行った。その庭は即ちカストレンの隠れ家である。

 将軍のやり方は常にかくの如くで、一面識もなき敵国人に旅装も解かず面会を求め、また知りもせぬ家に唯一人にて進入するなど、初めより一身を投り出し、危険という観念を超越した人でなからねば到底出来得る業でない。

 この会合において将軍より提出した案が二つある。一は日露戦争の開始された時局に対し反政府党の取る方針如何、ニは露国における現下事情の通報を得たいというのである。これに対しシリヤクスは答えて言う。「政事上のことなれば予は悦んで知れる限りを告ぐるが、間諜のことなれば我が党の体面にも関するので引受くることはできぬ」と彼は過激派中の最も危険人物である。然るに間諜の媒介は断然謝絶したところを見れば、彼らが如何に政党の体面を重んずるかが知らるる。

 然しカストレンはこれを抑へ「先ずしばらく待ち給え。予に心当たりがあるから友人に話して見よう」と直ちに電話にてスウェーデンの参謀大尉アミノフに協議し、アミノフと参謀中尉クリンゲルスチエルナの尽力にて少尉ベルゲンを露国内に派遣することになった。将軍の戦時諜報勤務はかくの如くして始まったが、それより2年間には想像も及ばね苦心もあり、また使用せる露国将校にして逮捕、投獄、自殺等もありて、涙もろき将軍は帰朝後もなお憂悶の情に堪えなかったこともある。

  将軍はカストレン、シリヤクス等と相識るに及んで将来の大計画実行上一歩を踏み出したが、わが政府より多額の金を送らせ、これを反政府党の軍資金に使用させなければならぬ。そのための苦心も一通りでなかった。倫敦に在る公使館附武官宇都宮大佐はよく将軍の計画を知り、その苦心を察していたので蔭になり日向になりてこれを援助した。

 明石大佐の名はこれより次第に反露政府党間に知られ、最早ストックホルムの辺りにのみ蟄居するをゆるさなくなった。ここにおいて独、オーストリア、仏、英に旅行し、英国にては林董(ただす)公使の大体の賛成を得た。

 六月頃に至りシリヤクスの運動せし効果いよいよ顕著となり、同志各党派の関係も相熟するに至った。その大体の意向は次の通りである。

 ゲオルギー党は資力が乏しい。もし資金を得れば手段方法の如何を問わず、連合動作に参加す。

 アルメニヤ党は共同動作に強ち不同意にあらざるも反政府党の聯合は反って露政府側の反動を強くし目的達成上困難を来すを恐る。また他方面よら考ふれば各党派ともに主義目的を異にしておるから、これを打って一団となすことは果して可能なるや。

 この如き意見の相遣はあったけれども、各党派間に顔の売れたるシリヤクスの尽力により大体において好結果を収めた。

 将軍は七月下旬シリヤクスと前後して露国反政府党首領株の淵叢たるスイスに入りて各党の連絡をはかり、さらにドイツに入りて暫く伯林に足を留めアムステルダムに開かれた列国社会党会議の情勢をうかがい、ハンブルグにシリヤクスと会合した。シリヤクスは一方においてフィンタンド人として主義や人種の地域競争圏外に立ち、他方においては虚無党時代よ りの元老として袖領問に親友多く、各党各派に知己を有して居るので主義を異にした各党派を聯合する媒介者としては最適当者である。

 将軍がドイツよりストックホルムに帰りし当日倫敦の宇都宮大佐かち電報を受取った。臼〈「来られるならば直ぐ来たれ」と。

 将軍旅装も解かず、そのまま旅に上った。倫敦に到着すれば宇都宮大佐云ふ「オランダ社会党首領ヨードコー等は同党倫敦支部員を集め、十月の巴里会議は好果を収むる見込なきゆえ初めより参加せざるに如かずという多数の意見である」と。かくなれば根底から破壊される恐れがあるので将軍は己れの意思を同党員に明示した。

「予はシリヤクスに聯合運動の開始を依頼したのではない。シリヤクス自身が発起者である。予はただ、この如き運動を起すなればこれを援助しようと云ふたのである。諸君がもし不同意ならば、予は敢て慫慂せぬ。離合は勝手だ」と。

ここにおいて首領ヨードコトから「熟考する」との言質を得て、一先づ袂を別った。

 明治三十七年九月中旬までに各党おおむね出席の旨を通知し来たったので十月一日巴里に集合した。

 レーニンは露国民権社会党の首領で常時スイスに居ったが、この会合には参加しなかった。その表面の理由は、場合により威赫手段を取る如きは党の原則に反すと云ふに在るけれども、内実はその競争党たる革命党の勢力を嫉視したものではなからうか。特にレニンの如きは、この党中の過激派で政府攻撃に関しては革命運動の援助に努めんとまで声明したことのあるのである。そのうえ将軍とは日露戦争前から面識があったのであるから当然参加すべきである。然るに参加しなかったのは勢力競争の結果と見るのが妥当であらう。

(西川虎次郎、1934.6.15)

 

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