
明石将軍(9)
日露戦争時代(其三) ![]()
明石将軍は、この運動開始以来7か月、南に北に奔走し、数々の危険を冒し、寝食も安ぜず露探に付け狙はれしことも幾度か分らぬ。而して今やつと露國反政府党の大部分を一堂に会することを得た。その人員も数十名に上り眉を揚げ案を叩いて慷慨國事を議して居る。而してその黒幕裡にあって操縦して居るのは即ち将軍である。将軍の胸中果して如何であったらうか。
会期は五日間でシリヤクス推されて議長席に着き、将来の運動法を議定した。その決議の大意は次の通りである。
示威運動は各地各一団となり各得意の手段を以てす。例へば自由党はその主義とする言論において州、郡会を煽動し、革命党及びこれと同系の諸党は得意の非常手段に訴へ、コーカサス両党の如く暗殺に熟練せるもの、オランダ社会党の如く示威運動の経験に富めるものは各これに由る等であって、その地方党派の一致協力に依り終局の目的を達しようと云ふのである。
これまでも部分的もしくは個人的に示威運動は行はれたのである。たとへばオランダ國民派の首領が満洲派遣露兵に降参勧告の提案をなしたり、一団の壮士が軍隊輸送妨害のため鉄道破壊を企てし等である。わが参謀本部も初めはこれを希望したけれども然し此等は結果良好でなく鉄道破壊の如きは僅に一日間の列車往復を止めたに過ぎなかった。そして犠性は多いのである。
然るに露國の各地方にわたり組織的に示威運動の行はれるやうになったのは、この巴里合議以後である。なお、この会議終るや非常手段を採らん欲する党派のみが会合して、その方法を打合せたが、この協議事項の中で特記すべきは露國各地の軍隊動員を妨害しようと云ふ決議であった。
かくて各党員は十月中旬悉く巴里を引き上げ、将軍もストックホルムの本拠に帰って静かに各地の状勢を観察した。
オランダ社会党は真先に運動を開始し、先づ労働者の同盟罷工を起し激烈なる反抗をなし、鎮圧の憲兵や軍隊と闘争し、容易に鎮圧せしめ得なかった程である。
仏國の露國示威運動――シリヤクスは巴里に於て同思想の有識者を説得し露國の同盟國たるフランス側より露國攻撃の示威運動を開始せしめんとした。この案は元来将軍の企てしものと云はれて居るけれども、将軍はいささかも関知せずと云って居る。然し直接に奔走の局に当ったのはシリヤクスである。
仏國当時の衆議員副議長、貴族院議員、博士等政界の老傑耆宿も賛意を表し、露人の友と名づくる一団体を組織し、その機関新聞をして盛に露國政府を攻撃させた。此一派は後に述ぶるガポン僧正の騒動後に於ても更に活動したものである。
露國革命、自由、民権諸党の運動――革命党はキエフ、オデッサ、モスクワ等の要地に於て盛に示威運動を試み、また一方大学生を煽動した。自由党は州、郡会、代言人会、医師会等に言論上より示威運を試み、民権党は巴里会議に参加せざりしに拘はらず単独行動を開始し、別働隊となって職工の示威運動を煽動した。
コーカサスの暗殺――官吏の暗殺日々十を以て敷ふる有様なりしは、彼等の常套手段で ある。
ネバ祭の変――露都に於ては毎年一月ネバ祭を行ふた。冬宮のそびえたネバ河畔で行ふもので、一に河祭ともいふて居る。祭典には皇帝親臨せられ、百官有司が礼拝し、大僧正がかなり長い説教をするので、式は頗る荘厳なものである。
然るに明治三十八年一月この厳粛な祭典中に対岸にある軍隊の間から卒然一発の砲弾飛びきたり、皇帝及び高位高官の頭上をかすめて冬宮の硝子窓を撃破したのである。
すべて不平党の露政府に対する怨恨は心身に徹底して居る。革命党中の最も過激なる女傑プレシユコブスカヤ或時将軍に語るやう。 「吾等は民衆のために悪魔と義戦することここに数十年、未だ目的を達するを得ず。而も今や我が敵國たる日本によって吾等に悪魔を退治せんをするの機を与えらる。吾等は如何で自己の微力に赤面せぎるを得んや」と実に彼等の胸中にある唯一の敵は露國皇帝とその政府で、この思想は彼等の一味を一貫して居たのである。
ガボン僧正の騒乱――ガボン僧正は日露戦後に於て政府の廻し者であったことが発覚し、革命議員のために露都郊外に誘殺された人である。然し日露戦争当時は革命党にも民権党にも属せないながら、一種の革命思想を有する職工間の布教師として尊敬され、両党の中間に立って人望を有して居たのである。
巴里会議の後各地方とも続々として示威運動起るや、革命党は勿論、民権社会党もこれに刺戟せられて煽動漸く進み、山雨まさに到らんとして風、楼に満つるの感があった。この時に当つてガボンは関係深き両党の職工間に立ち、数万の衆を率ゐ、血を流さざる手段 を以て冬宮に迫った。
然し事実は軍隊出動のため非常の騒乱となり、多数の労働者が死 傷して惨憺たる光景を現出したのである。然るに機至らず一敗地にまみれたが、外には列強間の大評判となり民衆に対する多大の同情を喚起し、内には一時たりとも冬宮に肉迫して満都を震駭せしめた点に於て確に一大成功と云はねばならぬ。
ガボン騒動後の示威運動――ガボン騒動後も各地方の示威運動は頻々として起った。東、中、西部ロシア、オランダおよびコーカサス地方は極力動員の妨害をなし、就中コーカサスのゲオルギー地方の如きは此動員の妨害を鎮圧するため派遣された歩兵若干中隊をも包囲し、ついにコーカサス第一軍団の動員は全く撤回せらるるに至った。
オランダ軍は職場どころか何処へも動かすことを得ざるに至った。フィンランドでは若干の地方官が暗殺され、人心恐々たるものがあった。
皇族の暗殺――帝室第一の強硬派であるセルギー親玉が爆弾にて暗殺された。
デカンスキー――革命党中の最有力者なる同人は一日将軍を訪ひ、オデッサの遊説と彼の地に兵器揚陸の方法を講ずる運動費と称し若干金を持ち去ったが、六月に至り突如としてオデッサの騒乱が起った。これは彼の門下のヲメルチユーグとフエルドマンが黒海艦隊の一軍艦の乗組員をして内部より士卒を煽動せしめ一揆を起させたのである。
以上の如く反政府党の騒乱は各地に起り、対日戦争行為の継続に各種の妨害をなしつつあるに至った。然し将軍は是のみに満足せずさらに進んで第二回の反政府党会議を計画した。
明治三十八年の新春はストックホルムにて迎へたが、内地よりの電報によれば我軍は百戦百勝の有様にて、ついに旅順にも白旗を樹つるに至り武勲ますます赫々たるものがある。これに反して将軍は遠き欧洲の空で露探につけ回され一日でも一夜でも安心して居ることが出来ない。此苦節は唯天のみ知りて人に話すことも出来ぬ境遇である。左の一絶は此間の消息を伝ふるものである。
三十八年一月偶成
遼水韓山■賊営(■は石扁に斤)
三軍僚友尽功名
愚誠苦節何人識
策竭茫然對月明(西川虎次郎、1934.6.15)
【編集子注】
冒頭の扇面は著者の書で、孫の藤村是明氏所蔵。文字は「済美」(せいび)。「左伝」(文公十八年)に美徳を成しとげること。子孫が父祖の立派な業績を受け継ぐこととある。(広辞苑)
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