<『花月記』番外篇>
言葉つれづれ(7)
西川 阿舟
◆ 目睹回想の助動詞「き」 今年三月『日本語を知らない俳人たち』(PHP研究所)という本が出た。著者池田俊二氏は文法的に間違った俳句が多い現状を嘆き、碧梧桐、虚子ら近代の俳人と現在の新聞俳句欄の選者たちを批判している。中でも助動詞「き」(「し」は連体形)については相当な分量を割いている。
「き」は目睹回想の助動詞といわれ、自分の現実の体験として見聞したことや、はっきり過去に属する事実を述べる語である。また文語では過去・回想・完了・存続などの助動詞として「き」「けり」「つ」「ぬ」「たり」「り」があるが、これが現代口語では全て「た」になる。池田氏は、その「た」を文語に翻訳するときに安易に「し」にしてしまい、その多くが誤用になっていると批判している。
長考に入りし蜘蛛の身じろがず
池田氏は、この長考に入った蜘蛛は目の前にいるわけだから、過去の助動詞「し」は誤用、完了存続の助動詞「たる」に替えて「入(い)りたる蜘蛛の」とすべきだという。
新緑の包み残せし城仰ぐ
これも「し」は誤用。「る」(完了の助動詞「り」の連体形)に替えればいいという。
しかし『日本国語大辞典』(小学館)には、「き」は目睹回想のほかに、平安中期以降には「我がそのの咲きし桜を見渡せば…」のように、完了存続の意味に用いられるようにもなったとある。
芭蕉や蕪村、一茶にもこういう「し」の使い方はある。
夏の夜や崩れて明けし冷し物 芭蕉
初冬や日和になりし京はづれ 蕪村
くわんくわんと炭のおこりし夜明哉 一茶
池田氏にかかればこれらの句も誤用ということになるのだろうが、そう言い切るのはちょっと無理だと思う。
畑打の四五人よりし晝餉かな 河東碧梧桐
満歳の乗りし竹屋の渡舟かな 高浜虚子
平家蟹干されし屋根や春の霜 飯田蛇笏
池田氏はこれらの句も誤用であると断じている。これらの句の「し」は確かに目睹回想ではなく、完了存続の意味で使われているが、やはり誤用とは言い切れないだろう。
十薬や蝦蟇(ひき)に似し岩まつりあり
きさらぎや少し尖りし鳥の声
さすがにこれらの「し」は口語の「似た」「尖った」を「似し」「尖りし」と文語に翻訳したようなもので、目睹回想とも完了存続ともいえず、強いていえば「現在の状態」とでもいうしかない。これらの「し」は池田氏のいうように誤用なのだろうか。
しかし『学研国語大辞典』には次のように説明されている。助動詞「き」は@目睹回想、A過去のほかにBとして〈動作の完了、または過去の動作の結果、あるいは状態を表す。…ている。…てある。…た。〉と説明し、例文として樋口一葉の『たけくらべ』より「垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐桟ぞろひに紺足袋はきて…」を引用している。この樋口一葉の「垢ぬけのせし」「小ざつぱりとせし」と「似し」「尖りし」の用法は何ら違わない。池田氏の「し」の濫用を誤用とする根拠はなくなってしまった。助動詞「き」の用法は平安時代以降かなり変化してきたのである。
ただ「蝦蟇に似し岩」や「尖りし鳥の声」は誤用とはいえないとしても、とても優れたいい表現だとは思えない。やはり、助動詞「き」(「し」)の本来の働きは目睹回想や過去であって、口語の「た」を「し」に翻訳したような句は、総じて意味のとりにくい締まりのない句になってしまうきらいがある。出来れば他の助動詞「つ」「ぬ」「たり」「り」で言い換えたり、他の表現をさがすなりしたほう方がよいだろう。
誤用ではないとしても、「し」の濫用には気を付けたいものだ。
次の句のように目睹回想や過去の事実を述べた本来の「き」(「し」)の用法はやはり引き締まった表現を生んでいる。
をととひの糸瓜の水も取らさりき 正岡子規
春の月ありしところに梅雨の月 高野素十
白魚火や国引せしといふ海に 阿波野青畝
(『玉藻・四季物語』誌、2005年7月1日号所載)
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