<『花月記』番外篇>
言葉つれづれ(18)
西川 阿舟
◆切字「かな」の用法 前号『冬物語』の「俳句と私」に御登場いただいた小澤實氏がその著書『俳句のはじまる場所』の中で、「かな」という切字について語っている。
「かな」は連歌の時代から長く使われてきた不思議な味わいを持った切字だという。
そめあかで落葉にかゝるしぐれかな 順覚法師
うましとて口をもたたく若菜哉 貞徳
さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉
高麗舟(こまぶね)のよらで過(すぎ)ゆく霞かな 蕪村
遠山に日の当りたる枯野かな 高濱虚子
このように連歌発句の時代から「かな」が下五にあるときは、上五中七が下五を修飾するように用いられてきたと小澤氏はいう。
藤田湘子氏も同じように言う。
〈「かな」という切字は下五に使ったとき、一句全体を柔らかく包み込むという性質をもっている。一句五・七・五を読み終わったときの余韻がふたたび上五・中七へ戻って、十七音をしずかな韻律の波にただよわせてくれる。けれども、上五や中七につよい切れが入ると、そういった余韻が消えてしまうのです。〉(※1)
小澤氏はさらに続ける。さきにあげた芭蕉、蕪村の句はかたちは「一物」のスタイルになっているが、内容的には「取合せ」であり、中七に切れを置かず、連体形で下五に繋げている。これは虚子の「遠山に」の句にも見られる。このかたちは連歌以来の永い歴史の中で生み出されたものであり、「形式の連続と内容の不連続、まさに不思議な用法」であるという。
そして例えば
寒鯉のどつと現はる土橋かな
の句は「現はる」がラ行下二段動詞の終止形であるため、中七のあとに切れができてしまう。
〈つまり下五の「かな」を読み終わったあと、一句全体をゆったりと包み込もうとする余韻余情をこの中七の切れが破ってしまうのである。それでは形式の連続と内容の不連続とが成就しない。〉(※2)
この句は「寒鯉のどつと現(あ)れたる土橋かな」と中七を連体形にしなければならないと小澤氏はいう。
ところがである。
地を伝ふ低き海鳴り晩夏かな
この句はまずい。中七で切れてしまっている。実はこの句は私阿舟の句で、『玉藻』十一月号「雑詠」欄に掲載されている。不明を詫びつつ「海鳴りの低く地伝ふ晩夏かな」と直させていただきたい。
同じ『玉藻』十一月号から「かな」と使った問題句をひろってみよう(切れがあるところに/を引いた)。
細ごまと農の芸術/植田かな ……A
花芭蕉/砂浴ぶ/象の親子かな ……B
耐へ抜きし夫よ/リハビリ/晩夏かな ……C
Aは/部の切れが余韻余情を消す働きをしている。「細ごまと農芸術の植田かな」とでもするしかない。
Bの句は「花芭蕉」と「砂浴びをする象の親子」の取合せでできていて、最初の/部は強い切れとなっている。また「砂浴ぶ」は終止形でここにも切れが生じているが、これは連体形「砂浴ぶる」の〈る〉の脱落であろう。この句は語順を入れ替えて「象の親子砂浴ぶる花芭蕉かな」とすれば芭蕉蕪村型の「かな」を使った取合せの句となる。
C、「よ」もまた強い切字であって、「かな」と併用はできない。「耐へ抜きし夫リハビリの晩夏かな」としたい。
最後に「かな」を使った取合せの句を探してみよう。
耳遠く目のかすみたる案山子かな 飯田蛇笏
物の芽のほぐれほぐるる朝寝かな 松本たかし
白猫の寺を出てくるさくらかな 今井誠人
腰に笛さして水飲むさくらかな 菅原鬨也
打つ釘のあをみたりける桜かな 高柳克弘
はひはひの顔もたげたるさくらかな 柚木紀子
(※1)藤田湘子『新20週俳句入門』学習研究社
(※2)小澤實『俳句のはじまる場所』角川書店
(『玉藻・四季物語』誌、2008年2月25日刊所載)
【編集者追記】
本誌別頁に掲載された阿舟の句。
第八回プリンスホテル新年俳句会
川面染めて流れゆくなり初茜 阿舟
俳句は「今」を詠むもの(「鬼の高士の添削道場」から)
天井に懐かしき音嫁が君 阿舟
今年は子年で年賀状に随分「嫁が君」の句がありました。これも「天」で作ったのでしょうが、「懐かしき」が弱い。過去の回想にいくのは後ろ向きですね。
天井に音新しき嫁が君
こうすれば今が出ます。
適切な季語の斡旋を(「鬼の高士の添削道場」から)
表紙には猫横たはる明の春 阿舟
これは「玉藻」の新年号の裏表紙には猫が横になっているという、身内の俳句になってますね。いいんですが、表紙のことをいっているんで、「明けの春」ではなく「読始む」としたらどうですか。
表紙には猫横たはり読始む
この方がいいですね。
【関連頁】
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