<『花月記』番外篇>
言葉つれづれ(20)
西川 阿舟
◆「耐ふ」「終ふ」はハ行下二段活用動詞だ ピアノ弾く暑に耐ゆ日々をなつかしく
ハ行下二段活用動詞「耐ふ」を間違えて、「耐ゆ」としている例を時々見かける。「絶ゆ」というヤ行下二段動詞があるので、それに引きずられてしまうのだろう。それにこの「耐ゆ」は終止形のかたちになっていて二重に間違えている。この句は
ピアノ弾く暑に耐ふる日々なつかしく
という風になっていれば問題はないのだが。
耐ゆることのみの人の世末枯るる
この句では「耐ゆ」は連体形のかたちをとっているが、もともと「耐ゆ」などいう言葉は日本語にはないのだから、間違いというしかない。
花に酔ひ人に酔ひたる一日終ゆ
「終ゆ」もよく見かけるが、こんな言葉も存在しない。あるのは「終ふ」というハ行下二段活用の動詞である。この句は
花に酔ひ人に酔ひたる一日終ふ
でいい。
◆「植う」はワ行下二段活用動詞 ワ行下二段活用には「植う」「飢う」「据う」の三つの動詞があり、ゑ/ゑ/う/うる/うれ/ゑよ と活用する。このことはどの文法書にも書かれている。しかし
老農は茄子の心も知りて植ゆ 高濱虚子
という句が『六百句』の〈昭和十七年〉にある。これについては阿部■人がその著『俳句 四合目からの出発』(*1)の中で「大御所的存在がかかるていたらくですから困ったものです」と激しく叱責したことで有名だ。それなのにこの句は『ホトトギス新歳時記』(*2)だけでなく『角川俳句大歳時記』(*3)にも「茄子植う」の項に例句として出ている。(■:竹かんむりに肖)
以前にも書いたが歳時記や季寄せは我々一般俳人の手本となるべき句を収録すべきであって、大虚子作といえどもこういう句を載せるのは如何なものかと私は思う。
この句は『現代俳句歳時記』(*4)には何故か
老農は茄子の心も知りて植う
と正しく訂正されて例句として出ている。
余談であるが、以前私がこの欄で虚子の「濃ゆし」について日本語にはない表現だから我々は使わないほうがいいと書いたとき、ある人から玉藻に属しながらそんなことを言っていいのかといわれたことがある。確かに私は玉藻に所属しているし、虚子を尊敬することについては人後に落ちないと自負している。しかし虚子も神ではなく人間、間違うこともある。それを「虚子だから許される」とか「『植ゆ』の方が調べがいい」(*5)とか言って無理に認めるよりは、間違いは間違いとして指摘した方が我々後に続く俳人のためにも、虚子自身のためにもいいと思うのだが如何だろうか。
『現代俳句歳時記』にまた次の例句をみつけてしまった。
梅雨茸や勤め辞めては妻子飢ゆ 安住 敦
もちろん「飢ゆ」などという言葉は存在しない。「飢う」でなければならない。
(*1)俳句 四合目からの出発 阿部■人 講談社学術文庫
(*2)ホトトギス新歳時記 稲畑汀子編 三省堂
(*3)角川俳句大歳時記 春夏秋冬新年 角川書店
(*4)現代俳句歳時記 春夏秋冬新年 角川春樹 ハルキ文庫
(*5)清崎敏郎がその著書『高浜虚子』の中で言っている。(『玉藻・四季物語』誌、2008年8月25日刊所載)
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