<『花月記』番外篇>
言葉つれづれ(24)
西川 阿舟
◆三十路、四十路……八十路など はじまりし三十路の迷路木の実降る 上田五千石
四十路さながら雲多き午後曼珠沙華 中村草田男
これらの句の三十路(みそぢ)、四十路(よそぢ)の様ないい方は、五十路(いそぢ)、六十路(むそぢ)、七十路(ななそぢ)、八十路(やそぢ)、九十路(ここのそぢ)とある。
「三十路」を『日本国語大辞典』(小学館)で引けば
みそじ(‥ぢ)【三十・三十路】(「じ」は接尾語。古くは「みそち」)@数の三十。A三十歳。三十年。*春曙抄本枕「三十(ミソヂ)あまりなる女の」
とある。
「二十(はたち)」も引いてみる。
はたち【二十・廿】(「ち」は接尾語)@十の二倍の数。はた。にじゅう。A二十歳。*源氏紅葉賀「得ならぬ二十の若人達の御中にて」
「はたち」は二十(はたち)であって「路」はつかない。「みそぢ」なども昔は三十(みそぢ)であって、「路」がつくようになったのは近代に入ってからのようである。そして二十も三十路も四十路も、二十歳、三十歳、四十歳ちょうどの年齢をいう。
以下は『玉藻』誌で見かけた句である。
誕生日酔ひし五十路の花の宴 楠本 固子
七十路とてまだまだ若き初鏡 田中 町枝
水菜しやきと七十路の歯に応へけり 寺田乃武春
すこやかに八十路の朝や竹の春 新田かずを
八十路なほ学ぶことあり青き踏む 信田 礼つ
恙なく八十路迎へて梅温し 相馬 昭一
これらの句は作者が五十、七十、八十などそれぞれの年齢に達したときに詠まれた句のようである「八十路」の句はまだたくさんあったが、『玉藻』にはいかにベテラン俳人が多いかをよく表している。
しかし中にこんな句も見かけた。
踏み惑ふ六十路なかばの春の闇
この句の「六十路(むそぢ)」は六十代という意味で使われているようだ。二十(はたち)に二十代の意味はないのと同じように、六十路(むそぢ)に六十代の意味はない。近代に入って六十(むそぢ)を、「六十路」と「路」の字を入れるようになったために、六十代の人生行路と勘違いして使われるようになったのであろう。
初氷四十路半ばの挫折かな
これも「四十路(よそぢ)」を四十代と勘違いして使っている。こうした間違いを時々みかけるが、言葉は正しい意味で使わねばならない。
◆「飛機」とは何か 飛機高しひざに落着く毛布かな
終便の飛機凩を纏ひ発つ
これらの句の「飛機」も句会などで時々見かけるが、この言葉はどんな辞書にも出ていない。どうやら「飛行機」の意味で使われているようだが、「飛行機」を言うならちゃんと「飛行機」と言うか、あるいは[航空機]「ジェット機」などと言えばいい。「飛行機」より二音も短いので使いやすいからと誰かが使い始めたのだろうが、「飛機」では意味がわからない。
飛機雲の伸びて山脈秋の雲
「飛機」があるなら「飛機雲」もあるというわけだろうが、これも意味不明である。
やゝ寒く飛行機雲や澄み渡る 今井田貴美子
『玉藻』に見つけた句だが、これなら勿論問題ない。
【追 記】本誌別頁に掲載された阿舟の句 鬼の高士の添削道場
◆整えすぎ
九品仏にて初蝉を聴きにけり 阿舟
これは形をきちんと整え過ぎたと思います。初蝉を聴いたことはそれほど大したことではありませんから、軽く言い放った方がいい。例えば
九品仏なり初蝉と思ひけり
でどうですか。
◆あいまいな表現
松蝉や九品仏てふ由来など 阿舟
これは逆に曖昧ですね。松蝉はいいんですが、問題は由来などの「など」です。由来を聞いたのか、読んだのかはっきりさせた方がいい。松蝉が聞こえているわけですから、ここは読む方がいいでしょう。
松蝉や九品仏てふ由来読む
よくなりました。
木宮の梅見足湯をつかいつゝ 阿舟
編集後記 「玉藻・四季物語」四〇号をお届けします。
○号が出だのが平成10年の秋、それから11年になります。季刊ですから11年間で40号というのはちょっと足りないのですが、今は季刊を固く守って発行されています。今後は内容をますます充実させていきたいと思っています。
今後とも応援、ご購読どうかよろしくお願いします。 (編集長・西川阿舟)
(『玉藻・四季物語』誌、2009年8月25日刊所載)
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