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仰げば尊し ![]()
故あって、十余年住み古したこの土地を引き払うことになった。移転の準備で、その辺のガラクタを片付けはじめると、意外に古いものが出てくる。つい手をとめて、古い雑誌やノートなどを開いて見、だんだんすわり込んで読み耽る、というあんばいで、このあわただしい日々の中で、四十年前の中学時代を思い出させられることになった。
兄が既にその中学に在学していたから、うすうす話は聞いていたけれど、新しい制服に新しい色とりどりの教科書、マルゼン印のインキ壷をさげ、入学のよろこびに胸ふくらませて登校した中学一年生に対して、学校の空気は暖かには思われなかった。黒板塀に沿うて桜がズラリとならんで植えてあり、一杯に花をつけている。そんなのを眺めてボヤボヤしていると、かん高い声で怒声が飛んできた。「何しちよるかッ、新入生はここに並ぶ……早くするッ」
痩せて色は黒く、大きな目玉には血の筋がみえ、赤ちゃけた口髭がいかめしい。後できくと退役の少佐で、体操と教練の先生である。小柄なくせに途方もなく大きな声を出す。われわれがガヤガヤと整列し、訓示があって、やがて引率されて教室に入ると、このおそろしい先生も一緒に入つてきた。さては、この先生が担任なのか(この学校では組主任と云ったのだが)、これは大変なことになったと、胆も冷える思いだったがそれはそうでなくて、新しい生徒の入った教室毎に顔を出して気合いをいれられたのであった。
この先生の綽名はシャモであると教えられた。なるほど風貌すこぶる軍鶏に似ている。また、キャアという名もあった。号令をかけるとき「気を付け」というのが、極めて気合いが入って、しかもかん高い声ときているから、ただ一言「キャア」ときこえる、それで「キャア」あるいは「キャアさん」と呼んだ。
何しろ有名な規則のやかましい学校であったが、さしずめこのキャアさんなどは、この繁瑣な規則の守護者のようなものであった。常に校内をグルグルとまわり歩いて、些かでも規則に反し規律に違うところがあると容赦はなかった。規則といっても、今思えば、役所流の繁文祷礼では決してなくて、いわばよい躾をつけるということだったのだが、目的はとも角、それを強いられている生徒の方はなかなか大変だったのである。
規則のなかには、消極的な禁止事項もあったし、又やらなければならぬ義務的な事項もあった。ラジオの放送が始まったのは、東京の震災後の大正十三年だったと思うが、それがはじまると暫くして、本校の生徒はラジオを開いてはならぬという規則ができて、各家庭にも申し渡された。私はその規則のできた頃には学校を卒業していたから、直接の影響はなかったようなものだが、これは随分世間で問題になり、時代に逆行すると非難されたものだ。
しかし校長の意見は、生徒がラジオに夢中になると勉強ができない、生徒が毎日学課の予習復習をするのは本校教育の根本だから、それを妨げるものは一切許されないというので、そういう精神は時流に動かされることがなかったのである。
この中学では野球も禁じられていたのであるが、馬鹿な男があったもので、日記に「午後戸山ヶ原で野球をした」などと書いたものだ。この男が呼びつけられて叱られたのは勿論だが「野球はお前一人ではできるはずがない。一緒にやったものがいるはずだ」ときめつけられて、この男、よその学校の友だちでもいえばよいのに、正直というか、気がきかぬというか、同級生の誰彼をありのままに申し立ててしまった。その連中が皆叱られたことは申すまでもない。 こういう場合の叱られ方はこの学校ではきまっていた。『謹慎』というのである。放課後、教員室の大きな掛時計のかかっている柱のところに一時間立たされる。それが謹慎で、謹慎五日と申し渡されたら、五日間毎日教員室に出かけて行って立たなければならぬわけだ。野球仲間のことだから九人以上はいたと思うが(イヤ、相手も必要だから十八人になるわけか)その連中が、そろって謹慎になったのだから気の毒な話だ。
門がまえにふるとり(隹)を書いた□という字は何とよむのか、調べてみようと思ったが、日頃愛用して、孔子の韋編三たび絶つではないが、ボロボロになってしまった漢和大辞典は、もう引越荷物の中に入ってしまっているし、最近の小さな辞典には、探してももうこんな字は出ていない。中学生のころ、われわれは何となしに、この字をカンと読むものと心得ていた。数学の教諭に阪田□蔵という先生があって、上級生から次々と受けつがれてきた先生のニックネームが『カンチャン』であったからである。
先ほども予習復習がやかましい学校だといったが、阪田先生はそのやかましい方の旗頭であった。教科書にある例題をあらかじめやって行かなければならぬ、次々とあてられて黒板にその解法を書かされるからである。あてられた生徒が四、五人教壇に上がって書いている間も先生はボンヤリしていない。机の間をグルグルまわって、机の上にひろげさせた各自のノートを見て、問題をやってきたかどうか点検される。やってなければ直ちに『居残り』とくる。これは放課後教員室内で勉強させられるのである。
講義になるとこれがまたやかましい。先生の話の間は、じっと手を膝の上において、先生の顔を見ていなければならぬ。聞きながらノートをとることは許されないし、勝手に教科書のぺージをめくることもいけない。そんなことをすれば直ちに「何をしているか」と叱声が飛んでくる。
咳一つ聞こえない教室の中で、先生は実に綺麗な字で黒板に数式を書き、又幾何の図形を描き――この先生はコンパスを使わないで真円を書くのが実に見事で、これは先生自慢のものであった――そして話の合間合間に早口で「エエカ……ワカッタカ」時には「ワカッタナ」と連発しながら講義をすすめられる。生徒はただひたすら全身を耳にして聞き入り、その場で話を理解しなければならぬ。ノートは話を理解して後のことである。
ところが実際はなかなかそうも行かぬ。予習をよくしてなければ先生の話が分らないし、分らなければノートもとらずにじっとすわっているから、だんだん眠くもなってくる。この胴長で脚の短い、漱石式の口髭こそあったが、どちらかといえば風采のあがらないこの先生を、会えば自然と身うちが引きしまるほど恐れていたものだが、急に親しみを感じるようになったのは、大正十二年の東京大震災のお陰であった。
この震災の前に阪田先生が私の寄寓していた兄の家のすぐ近くに引越してきたのである。同級の悪童共が「オイ、カソチャソが引越してお前の家のすぐ横に行くらしいぞ」と言う。路地の奥の家が空いて、そこに誰か越してくることは知っていたが、それが恐ろしい阪田先生とは……。私は表札を見て阪田とあるのを確めたが、何卒別人の阪田でありますようにと祈った。しかしあくる朝、茶の間の小窓から見ていると、折柄通りかかって行く人影、小柄で髭ばかりものものしいカンチャンその人ではないか。
私は万事休したと思ったが、それは浅はかであった。実際は、その後、こわい先生も、さすがに近所のよしみで私に対してはかなりのお目こぼしがあったのである。
ところで四十一年前のあの大地震につぐ大火災で、世情騒然、街々に自警団というのができて、夜は夜まわりをして歩くことになった。これは一家の主人の役である。阪田家からは阪田先生が出てくる。私の兄は軍人だったから戒厳令下の東京のこと、あまり家にいることができないし、姉はちょうど懐妊していた。そこで私が駆り出されることになるのだが、ごくご近所のこととて、いつも先生と私が組になるのである。先生が町内の名をしるした提灯をプラさげ、私が拍子木をもってカチカチと叩きながら歩いて行く。これではあまり叱るわけにもいくまい。
私は先生と一緒に夜空を仰ぎ、オリオンとか馭者座など星座の名を習い、天文学の本を教えて貰った。それ以後もう阪田先生はこわい先生ではなかったのである。
恩師を綽名で呼ぶのはほめた話ではない。しかし吉田、鈴木などの名は、長い年月の間に記憶が混乱してしまう。古い友だちと噂話をするときも、姓をきいただけでは誰かわからなくても、綽名を聞けばたちまち在りし姿が彷彿と浮かび上がるのだから重宝なものである。綽名のうちには動物の名が多かった。校長先生のアオオニは尋常の動物とは申せないが、博物の先生がタヌキ、数学のオケラ。国語のカマキリと呼ばれた先生は痩身長躯、話をするときに手を前の方に出して、ものをつかむがごとくに動かされる。綽名のよってくるところである。
オットセイと申す先生があった。この学校は公立であったにも拘らず、校長は昭和十三年退職まで四十年間ただ一つの学校で勤続したという異色のある学校で、したがって校長の個人的色彩が強く、校長が自分でこれぞと思う俊秀に白羽の矢を立てて学校に迎え入れた先生が何人もあったらしい。馬場三郎先生もその一人であったとか。絵画の先生で、この学校には珍しく、あまり俗世間のことには拘らないところがあった。口髭がやや内側に巻きこんでいるような気味があったのでオットセイという名が奉られたのであろうか。
名画の復製や石膏模型をならベた広い図画室に立てこもって、あまりこまかいことをいうのを好まず、叱るときも諄々と説教することはなく、ただ何となく大きな声で怒鳴るという風である。水彩画を教授されるのだが、小さい筆でていねいにかいていると叱られる。「ペタペタと塗るのじゃ」……これは先生の口癖であった。
一年や二年の生徒は子供である。全くのヤンチャ坊主で、図画室だけは椅子と机が別々になっているのが嬉しい。始業の礼が終わって腰かけようとすると、横の奴がスッと椅子を引く、すわろうとした私は勢いよく尻餅をついてひつくりかえる。オットセイ先生の怒号が私の上に落ちてくる。「何をするかッ」これは筋違いで隣の男が悪いにきまっているのだ。憤然と立ち上がって「私は何も……」と言いかけると又やられた。「やかましいと言うとる!」しかし叱られてもどうも滑稽味があった。
何のときだったかクラス一同が叱られることになった。教室で一同静まり返っていると、先生が教壇の上に現われて、いきなり大喝された「何ごとかッ」私どもはワッと爆笑してとまるところがない。風邪でも引いておられたのだろう、先生が大喝した途端に鼻汁が飛び出て、オットセイ髭の上に垂れ下がったからである。先生はもう一度大きな声で「ハナが出た」といって手巾で拭われる。ハナのお蔭か、お叱言はそれでおしまいで、先生はさっさと教室を出て行かれた。
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馬場先生よりも、もっと元老格の先生で『エラサン』と呼んだ先生がある。あごが張っていて、後から見ても両顎が見えるほどで、魚の鰓のおもむきがあったので『エラ』、敬称をつけて『エラサン』である。英語の先生で、この先生もこわいことでは校内で一、二を争った。英作文の時間である。次々と練習問題があてられて、 短かい日本文を英訳していく。
折悪しく、私の前の席の男が欠席していて、エラサンはその席にうしろ向きに私の方を向いて腰かけ、指名された生徒のいう英文を直してゆかれる。その合間々々に私のノートを見ては、ここがいかん、これはこうだと直される。個人教授のようなものでまことにありがたいわけだが、どうもおそろしくて汗の流れる思いだ。
だんだん進むほどに、私の予習のたねがつきた。あとはノートが空白である。「なんだ、これだけしかやっとらんのか、よし、後に行って立っとれ」。たちまち、後の壁に立たされてしまった。欠席したやつを恨んだがどうも致し方がない。
みんなピリピリしているのだが、教科書に Enchanted Sword(魔法をかけられた剣)という題の一文があった時には、漣のように笑いが起こった。それはエンチャンという名の先生があったからである。よく肥えてその風貌が辛亥革命の雄・袁世凱に似ていたから、このニックネームが奉られたのだが、この先生は後年、脳出血にかかり、その後行動が普通でなくなり、学校にきてこん棒をふって生徒を追いかけたりしたそうだ。Enchan……にわれわれが笑いたがるのをエラサンは苦い顔をして見ておられた。それやこれや、われわれは何回この先生に叱られたことか……。
いかめしく恐ろしかったこの先生が、ある日非常に弱々しく力なげに見えた。教壇に立っているのも堪え難いようで、訳読を生徒の一人に命ずると、すぐに低い教壇に腰を落としてしまって、長い両脚の聞に身体を埋めるようにして、はげしく咳こまれた。訳読がすむと、僅かにうなずくだけで、又次を指名し、そのまま苦しげにうつ向いて時々咳をされる。もはや、お叱言もなく講話もなかった。その日から後、先生は学校に姿を見せられず、一週間もたたぬうちに先生の訃報が伝えられた。
思えば、あれが先生の最後の授業であったのだろうか。死の間際まで、あの苦しみを押して、われわれの授業に出られたのかと思うと、生意気ざかりのわれわれも、はげしく胸の痛むのを覚えた。
冬の日であった。全校生徒の整列する校庭で告別の式が行なわれた時、今外語大の教授で詩人としても一家をなしている安藤一郎君が、当時私等と同級で、弔辞をよんだ。その中の「悲風枯枝に長嘯し……」と言う句が、私の胸の中をも吹き抜けていくようで、云いようもなく悲しかった。冬の曇り空に、日が大きな暈をかぶっていた。
もう一人変わった綽名の先生があった。『ゲパサソ』という。ご自分でこの名の由来を説明されたと校友会報に書いてあるが、私はどうしてそんな名がついたのかよく知らない。唱歌の先生で、常に一年生の組主任をしておられた。毎年三月になると卒業式にそなえて歌の練習がある。「アオゲパトウトシ……」われわれはこのゲパというところを特に力をこめて歌いあげたものである。
古い本やノートの間から出てきた中学の校友会報は昭和十二年に創立五十周年の祝典が行なわれたことを報じている。それから数えると、今では代替わりして高校になったものの八十年に近い歴史をもっていることになる。卒業生の名のうちに東条英機大将があるのだから古いわけである。
その長い歴史を形づくってこられた諸先生を奇体な綽名でお呼びし、あまつさえ、とやかくとあげつらったのは、まことに申し訳ない次第で、天かける諸先生のみたま、また寿ながくおわす先生方のいくみたまにお詫び申し上げる。
(西川修、『大塚薬報』1964年3月号所載)
【編集子あとがき】
本編の中学校は当時の東京府立四中である。明治21年(1988年)の創立で、市ヶ谷加賀町にあった。本文でアオオニと呼ばれている校長は深井鑑一郎先生で、明治22年から在職、校長としては明治31年から昭和12年まで勤められた。ほかに綽名だけで出てくる先生方の本名はよく分からないが、「百年史」の資料にある教員在職期間表から類推すると、英語の『エラサン』は須藤茂春先生(在職:明治31年〜大正13年)、唱歌の『ゲバサン』は渡辺正平先生(在職:明治40年〜昭和12年)であろうか。なお馬場先生は明治43年〜昭和17年、阪田先生は大正5〜13年の在職と記録されている。府立四中は戦後、都立戸山高校となり、編集子も通学した。中学校から高校を受験するとき、父である著者に、どこの高校に行けばいいか相談しようとすると「決まってるじゃないか」という一言で終わった。入学式には父も懐かしがってついてきてくれたが、教頭の藤村久雄先生(ブル)は大正12年からの在職で、上の本文とわずかに重なる。入学式のあとで父が挨拶に行くと、藤村先生は「憶えている」といわれたそうだが、「あの先生の表情は、憶えていると言うような顔じゃなかった」というのが帰宅してからの父の感想であった。
当時の校長は平田巧先生(ラッキョウ)であった。あとで父が「憶えやすい名前だ」というので、綽名の話かと思ったら、編集子の母方の祖父が平田、父の姉が藤村という姓で、編集子はそこの家から戸山高校に通った。
ブルの英作文の時間は週1回の火曜日だけだったが、まことに恐ろしかった。毎週、次の授業に出る短文や慣用句を暗記してゆかねばならず、恐ろしさの余り懸命に暗記した。登校の途中で偶然、先生と並んで歩くことがあり「よく勉強している」とほめられた。上の本文で著者が阪田先生と夜警に出て「もうこわい先生ではなくなった」と書いているのと相通じるような気持ちではないかと思う。その結果、通信簿の点も最高点だったが、本当は同じ英語でも怖くない先生の点数は余り良くなかった。
大人になって英語でしゃべらなければならなくなったとき、藤村先生の暗記が自然に口から出てくるので、われながら驚いた。子どもの時分には強迫してでも憶えさせ、勉強をさせた方が、後々役に立つのではないかと思う。もっともアメリカ人には「お前の英語は候文だ」とからかわれた。
なお、本文に出てくる「門構えにふるとり」の文字は、コンピューター辞書はもとより、手もとの漢和大字典でも見あたらなかった。やむを得ず□で代えてある。(2002.6.22)
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