
別府の花 第1回
オタクサの由来 久し振りで九州を訪う機会があった。夜、高松を出ると、翌朝7時には、もう別府に着く『すみれ丸』という快速客船である。北九州を集中豪雨が襲ったすぐ後で、雨もよいの空は重く、ベタ凪の海上には霧が這って水平線も見えない。
ひとり夜明けの海を眺めていると、一人の男が急ぎ足に近づいて来て声を掛けた。「昨夜は済みませんでした。本当に済みませんでした。気の付かんことをしてしもうて…」しきりと謝るのである。それで思い出したが、昨夜、高松で乗船切符を買うのに、申込所へ行ったり、窓口に行ったりしている間のちょっと目を離したすきに、長椅子の上に置いた鞄が見えなくなった。ビックリしてその辺りを見回すと、料金表など眺めてぼんやりしている若い男が私の鞄をブラ下げているのである。取り返しに行ったら無闇に恐縮して陳謝したが、その男に違いない。
私は鞄ばかり見ていたから、その男の顔など注意しなかったのだが、向こうは早朝の甲板で姿を認めて、またもわざわざ謝りに来たものとみえる。朴訥な人柄と思われる。こちらもあまり無愛想な顔もできないから「早いですなア、今、何時ぐらいでしょう」などと言うと、また克明に大きな腕時計を目の前にかざして「5時にまアだ二十分あります」と言うような次第だ。
「時に貴方は九州の方ですな。南の方ですか」
「私は宮崎のもンですが、ハア分かりますですか」
「宮崎なら私も居たことがあるのでね。宮崎市の清水町という所は知っていますか」
「アー、清水町なら測候所のある所ですが。あのあたりはよう存じ上げとります」彼は自分を置引きと誤解しているかも知れないと思った男が、急に身近に思われて安心したものらしい。別に暇潰しに宮崎の話をしようというのでもなく、無闇にニコニコして向こう側に行ってしまった。大分の私の旅は、奇妙な会話から始まったのである。
別府の温泉地、歓楽地としてばかり知られているが、そればかりではない。由布岳、鶴見岳というような山がいきなり海に向かって傾斜しているこの辺りは、土地の起伏が激しく、川は流れが早く、深い渓谷を作るところも多く、変化に富むから、植物の種類なども実に豊富である。また、別荘地のせいか植え込みの多い屋敷が多く、街の中を歩いても色々の木や花を見ることができる。温泉のため地面の温度が高い事も植物の繁茂に拍車をかけているのではないかと思う。
仰ぎ見るようなイチョウの大木があるので神社でもあるのかとおもって近づくと、それが小さな家の庭の中であったり、クスの大木が何本も茂っている所が、何でもない空き地であったり、石塀の上から溢れ出るように白い花をつけて垂れ下がるヘクサカズラ。三米くらいの大木になって、中心が紅色の白花が一杯に咲き満ちているムクゲ、お化けのように大きなイチジクなど、すべて大振りでいかにも豊かで気持ちがよい。
中でも印象に残るのはアジサイと、直径三十センチにも余るような大きなガクアジサイの花である。坂の多い別府の街の、五、六段の石段を踏んで門を入るような屋敷だと、大抵門の傍らから道の上にかぶさるようにアジサイが咲いている。澄んだ藍色のその花は、墨色の梅雨空の下で、かえって光を増すように思える。可憐なアジサイと比べて、紫色に群れる小さな花の固まりの周囲に、大きなリボンのような飾り花をつけたガクアジサイは雄大である。昨年花月記を書き始めた時にも紫陽花のことを書いたので、またかと思われるかも知れないが、シーボルトに因んだ佐藤達夫氏の一文を紹介しておこう。六月二九日朝日新聞の『きのうきょう』に掲載されたものである。
(ガクアジサイ)お滝さん
庭のアジサイも日増しにその色を深めてゆく。
アジサイといえば19世紀の中頃、この植物を初めて学界に発表したシーボルトのことを思い出すが、彼はよほどこの花が好きだったらしい。
その時の学名は“ハイドランジア・オタクサ”というのだが、それは、彼が長崎に滞留していたころ愛人『お滝さん(オタクサン)』の名にちなんだものと伝えられ、友達の話によると、長崎の彼の住居跡にはアジサイが植えてあって、そのそばに、この学名のいわれが記されているということである。
ところで、先頃ふと思い立って、彼がこの『オタクサ』を発表した日本植物志の原記載を調べてみた。すると、そこには「これは出島の植物園にオタクサの名で栽培されていて、7月に花が咲く」と書いてあって、かんじんのお滝さんのことは一言も出ていない。これだと、前からあった植物名をそのまま学名に採用したように受け取れて、アジサイにまつわるお滝さんの美しいイメージは形無しになってしまう。
それで、少々がっかりしたのだが、しかし、俗称にせよオタクサなどという植物名があったとは思えないから、この記述は、彼がわざとしらばくれて書いたものと断定することにした。
その方が、お滝さんにとっても、アジサイにとってもしあわせだろうし、それに、当のシーボルト先生の心理が大変ほほえましくなる。
この佐藤氏の文章は大変面白く、シーボルトに向けられている温かい目も感じられるのだが、本当の所は少々違うのではないかと思う。というのは日本植物志の記載はシーボルトの文章ではないと考えられるからである。私は本当の書物を見たことはないので知りもしないくせにと言われるとそれまでだし、また昭和七年(1932)武田長兵衛氏の援助に因って朝比奈泰彦博士が縮刷複製したフロラ・ヤポニカの写真を見ると明らかにシーボルトの名が書いてあるので、正しくシーボルトの著書のように思われるが、この日本植物志刊行の由来について篠遠、向坂両氏の著した『大生物学者と生物学』の中には次のように述べられている。
シーボルト自身は植物学者として傑れた人ではなかったが、多くの採集品をミュンヘン大学のツッカリニに送り、ツッカリニはそれらを研究して、1835年より有名なる『日本植物志(Flora Japonica)』をシーボルトと共著で発表し始めたのであった。第1巻は1841年に完結し、第2巻の25集を終わって、ツッカリニは1848年に沒したために中絶したが、第2巻26集より30集まではミケルが引き継いで1870年に完成した。
このことについては牧野富太郎氏は「シーボルトは世人が思うほどな植物の大学者ではない」という一文を草し、岩崎灌園が写しておいたシーボルトの植物鑑定書から見て、彼の知識はそう大したものではなく、また呉秀三博士の著したシーボルトの伝記(明治29年)に「シーボルトが数十年の前にすでに数多の(植物の)種類を考定したるの功甚多しとするに足れり」と記してシーボルトが植物の命名考定に自ら仕事をしたように書いてあるのは誤りで、当時主として植物検定の労を取りしはツッカリニ氏であって、シーボルト氏は専らその材料供給者の位置に立っていたものであると述べ、さらに「仮令植物名ノ終リノ命名者ガSieb. et Zucc.即チシーボルト並ニツッカリーニトナッテ居テモ此処ノシーボルトハタダ名誉ニ与エラレタモノニスギナイ」と書き加えている。
そうすると『シーボルトの日本植物志』と称するものの、その内容は彼の執筆ではないことになり、佐藤先生の御意見は多少的を外れたように感じられる。結局オタクサはシーボルトの命名で、これを記載したツッカリニはその名の由来を知らされてなかったということではなかろうか。
シーボルトはドイツ人であるが、蘭館の医官として文政6年(1823)日本にきて、文政9年(1826)江戸に上った。その時、江戸の博物学者たちは大騒ぎをして彼を迎え、盆栽植物や鉱物、虫類などを陳列して見せ、また鑑定を乞うたという。この時に岩崎灌園が描いた彼の肖像画があるらしい。これは牧野氏が本郷の一書店から買い、後に白井光太郎氏に贈った物で、今は国立図書館の所蔵になっているという。この画像の肩の所に24才と記してあるが、文政9年だと1796年生まれのシーボルトは30才になっている筈で、何かの間違いであろうか。
(南斗星、『大塚薬報』1963年8月号)
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