別府の花 第2回

タケニグサの記憶

 久し振りに訪れた別府で、行かねばならぬ所、是非会いたい人も沢山あったのだが、その間に、さして用もない実相寺山に出掛けたのは私のわがままである。

 実相寺山は別府市街から北の方約一キロ、鉄輪温泉の手前にある小高い丘である。昭和15年(1940年)秋、牧野富太郎先生が大分県に来遊して、その指導する採集会が行われた時、私も一緒について歩いたことは前にも述べたことがあるが、それ以来これに刺激されて、別府近郊の地に植物を採りに行った事が何度かある。そして実相寺山は最も良く足を運んだ所。当時私は別府で病院勤めをしていたが、入院患者のうち、回復して退院の日の近い数人を連れて散歩をかねて出掛けたり、時には子供を連れて行ったり、また自分独りで行ったこともある。

 その頃から一応公園という名はついていたが、山の頂上に小さな寺があるばかりで、他には何の設備もないのだが、道の傍らには山の植物が色々あって、図鑑を片手に、ウメバチソウとかタツナミソウとか、今まで知らなかった植物を見付け出すのは楽しみであった。 今度もせっかく来たのだから一寸その後の様子を見ておきたいと思って、宿で頼んでくれた車に「実相寺山へ」と言ったのだが、運転手はあまりよく知らないらしい。「名前は聞いているんだが、行ったことがないんでね」とか「まだあすこは何もないんじゃないですか、来年の夏になると大きな温室ができるという話だがね」などとまことに頼り無い。

 「とにかく、その辺りまで行けば良いから」と言うと、広い丘の中腹を切り開いて、何か大きな建物が立ちかかっている妙な所で降ろされた。付近の苗圃のような所で仕事をしている小母さんに声を掛けて聞いてみると、F観光会社が今大植物園を作りかけているのだと言う。なるほど、丘の上に藤棚のようなものがあったり、まだ筵で包んだ苗木があちこちに植えてあったり、その間にこれも近頃植えたに違いないユーカリの樹が何本もヒョロヒョロと伸びている。大きな建物は温泉利用の巨大な円形温室だと言う。

 「ところで実相寺山という山があった筈だが」と尋ねると、「それはそこの新道を登って行ったら良い」という返事だ。舗装道路をはさんで向こうに高く茂った笹の間になるほど新しい道がある。二十年前と比べて山はすっかり浅くなっている。まだ開いたばかりの道は、削り取った山肌を露に見せて如何にも殺風景だ。秋の野の花に彩られた楽しい散歩道の面影は全く消えて、ただ山の頂上に引き上げるのが私の役目だといわんばかりの道だ。

 少し上がってバス道路が見えなくなった頃、そこにタケニグサが生えていた。タケニグサは道の傍らに沿うて斜めに山腹を覆うて群がり立っていた。柳田国男氏が庭に生えて来るこの草を憎んで、しきりと抜き捨てたことを、その著『野草雑記』の中に書いて、特にこの草が新しく掘り返した新開の土地に、先ず第一に侵入して来る習性のあることを指摘しているが、ここでもブルドーザーが美しい山の斜面の雑木の林をなぎ倒して、山土を剥き出しにしたその新道の傍らに連なり、群がり立っていた。

 真っ直ぐにのびた大きな茎と、帯白色の巨大な葉、この異形な植物がみな一様に花を付けている。小さな白い花が鈴なりに垂れて、何か金属的な音を立てそうに見える。これだけ集まっていると、憎たらしいというよりも、一種壮大な感銘を受けるのは不思議だ。

 実相寺山は頂上に奇妙な展望台のような物ができて一層わびしく、帰りに選んだ旧道は、脚の踏み場も覚束ないほど狭くなり、蜘蛛の巣の下をくぐらなければならないような、みじめな有様になっていたが、タケニグサの印象だけは爽やかだった。


著者撮影のタケニグサ

 そのあともう一度タケニグサを思い出す機会があった。大分県中津で開業している畏友向笠広次博士の懇切な斡旋で、大分市に辛島博士を尋ねたのは、まだ明けきらぬ梅雨がもたらした早朝の通り雨が旅にいるものの心を重くする、そんなある日だった。辛島博士は長く大分県の医師会長を務め、既に刀圭界の耆宿であるが、また底知れぬ博識で、植物の事も詳しくて、かねて大分県の植物学史を講ぜられたこともあり、殊に蘭学資料の収集研究では有名である。

 私が辛島博士を訪問したのは、同氏がかって牧野富太郎氏が犬ケ岳で受傷し、大分別府で療養中に、大分県立図書館所蔵の稀覯書ワイマンの植物書を携えて、旅館に牧野氏を見舞ったことがあるという話を聞いて、当時の追懐談を聞きたいと思ったからである。

 一体、牧野氏の犬ケ岳の遭難は、その一生の間でも特筆に値する事件であると思われるのに、これについてはあまり書いたものがない。しかも、年譜を見ると、それが昭和十五年九月とされているものが多い。この九月にも疑問がある。とにかく、受傷の前後から療養中の状況をもう少し詳しく知りたい。牧野先生の療養当時のことをご承知なら是非何なりとお聞かせ願いたい、というのが私が電話で辛島博士にお願いした要旨である。

 外来患者の診察を始める前に来てもらいたいとの伝言であったので、他家を訪問するには早すぎる時刻だったのだが、辛島博士はもう外出中で暫く待たされた。暫くしてから庭から私を招じ入れながら「起き抜けに別府まで行って草を採って来ました。タケニグサですよ。あんなものを鉢植えにしてみようというのは私以外にはないでしょうな」との話である。

 そう聞けば庭前に沢山小さな鉢物や盆栽があるが、いずれも山野の植物を自ら採ってきて作られたものらしい。それにしても、つい二日ほど前、実相寺山のタケニグサを見た私は、あの植物は大きく群生した所が身上で、鉢植えではいたずらに異様なばかりではないかと思ってみたり、いや、あんな大袈裟な変なものを鉢の中に押し込んで、飼い慣らそうというのが先生のねらいだろうか、などと色々思い巡らしたのであった。

 ところで、辛島先生が見舞いに携えたワイマンの植物書であるが、この本については牧野氏の『我邦植物学の歴史一斑』と題する文の中にも名が見える。

 シーボルトが来た時分には、既に蘭学がボツボツ開けて、医者の方では『解体新書』というような書物が翻訳され、蘭学者としては杉田玄白、宇田川榕庵というようなその他種々の人が出て、蘭学を研究していったのであります。それであるから、その頃すでにドドネウス、或いはホッチン、或いはオスカンプ、或いはウエイマンというような学者の著した和蘭等で出版された植物の書物が来て、当時宝物のようになっていたのであります。云々 (大正3年慶応義塾学報――植物集説上所載)

 このウエイマンは即ちワイマンと同じであるが、日本全国に平戸ほか何ケ所かに所蔵されるもののうち、この大分県立図書館蔵のものについては、辛島博士等の詳しい調査がある。それによると、これは商館長カピタン・チチングが福知山の城主朽木隠岐守昌綱(号は龍橋)に献じたもので、後にどんな経路をたどったものか、豊後佐伯の城主毛利高標の手に移り、佐伯文庫の中に秘蔵されたものだという。全4巻8冊からなるが、大分図書館のものは第3巻第2冊が失われ、今7冊が現存する。

 此の本には、扉にチチング自署の献呈の辞があるので知られているが、この献辞は辛島博士の依頼に答えて、有馬成甫博士が解読し、次のように訳されている。

 『オキの領主、朽木左門様に贈呈したる 商館長イサーク・チチング』(オキの領主というのは隠岐守の称号を領主と解したものと思われる)

 この本が入国した時期については天明5年(1785)と考えられているが、それは朽木候がカピタンに宛てたワイマン本草書8冊を受けとったという内容の天明5年4月20日付けの書簡があるからだそうだ。


ワイマン植物書扉のチチング自署の献辞

 ところでこの大分図書館蔵の書籍の第1冊の表紙の裏に、大分県立図書館長であった小川氏のペン書きの一葉が添付してある。辛島博士は「こんな貴重な本に、こんな楽書きをして、図書館長ともあろうものが非常識な」と大変憤慨しているが、これを見ると、牧野先生閲覧の経緯のみならず、大分の旅館名があったり、大分退去の日付けが書いてあったり、私にとっては大変ありがたい楽書きであった。

 長いけれどその全文を次に掲げておく。

 理学博士牧野富太郎先生79才ノ高齢ヲ以テ本県ニ植物採集ノ目的ヲ以テ来ラル。途次福岡県宇ノ島付近犬ケ岳ニ於テ誤ッテ蹉躓シ腰部ヲ傷ケラル。当市桑原医院ニオイテ手当テヲ受ケ丹下旅館ニ宿泊ス。ソノ徒然ヲ慰メンガ為ニ此書ヲ閲読ニ供ス。博士喜ンデ之ヲ受ケ一葉毎ニ丁寧ニ閲読セラレ、此書ハリンネ以前ノ著ナルガ故ニ、今日ノ植物学上ヨリ価値ハナキモ珍籍タルハ論ナシ、東京ニオイテ之ヲミルモ通覧シタルコトナシ。大体何ヲ書ケルカヲ頭ニ入レタレバ将来又参考ニ資スル節モアラン。第一冊アニス第四冊エストラゴン興味アリ。第五冊ニ二葉ヲ破リ取リタル所アリ。将来無識ノモノノ閲覧ヲ許サヌ様セラレタシトノ注意アリタリ。博士病癒エテ当市ヲサル時昭和十五年十二月二日ナリ。日本植物図鑑ノ著ヲ終リタレバ今後ハ日本植物図説ヲカキテ畢生ノ業ヲ果タサント思ウト語ラレタリ。80才に垂ントシテ此語アリ、惰者ヲシテ立タシムルニ足ル。記シテ当来ノ学者之ヲ服膺シテ大ニ日本文化ノ為外国ニ向ッテ気ヲ吐クノ日アルヲ待ツ。

    昭和15年12月3日                    小川直煕記

 牧野先生は犬ケ岳で負傷の後、助けられて山を下り、当時、福岡県築上群八屋町といった現在の豊前市で、宇ノ島駅近くの旅館に入り、医師の手当を受け、直ちに日豊線の列車で大分まで来られたものらしい。大分では駅前の丹下旅館に泊まり、旧知の大分師範教授野口彰氏に連絡を取った。野口氏は広島文理大の学生の時から牧野先生から指導を受け、親交があって、当時の大分旅行に際しては野口氏を頼られたもののようだ。

 大分では外科の桑原医師の治療を受けた。この桑原先生が辛島博士に「どうも学者らしい立派な人の治療をしているのだが…」と話したのが切っ掛けで、名前は何だ、それではあの有名な植物学者だろうということで、大分図書館の稀覯書を持ち出して見舞いに行く事になったわけである。この大部の書物を持参した顔ぶれは辛島博士のほか、高山大分市長、後の別府大学長佐藤義詮氏、そのほかに小川図書館長等であったという。辛島博士はこのほかに、大分出身の本草学者賀来飛霞の描いた掛軸、及びヒメシダなどの小盆栽三種をも持参した。

 この掛軸は四木三草図といって貝原益軒の『大和本草』のうちにある有用植物を選んで描いたもので、牧野博士はこれを見て喜び、その名を詠み込んだ歌を作りこれを揮毫して辛島博士に贈ったという。残念ながらそれは戦災のため失われたらしい。しかしその歌は、牧野氏が別府療養中に書いて『実際園芸』に掲載した『園芸植物瑣談』の中に出ている。

  くは(桑)とかじ(楮)ちゃ(茶)まを(苧麻)
  うるし(漆)にあゐ(藍)とべに(紅花)
  賀来飛霞大人(かくひかうし)の朽ちぬ筆蹟(ふであと)

 早朝のあわただしい訪問であったが、辛島先生はわざわざこの飛霞の軸を床の間に提げ、またワイマン植物書の解題を作り、参考書をそろえて、私を迎えられた。私は長く先生の温情を忘れないだろう。タケニグサとの妙な取合わせの記憶をも含めて……。

                        (南斗星、『大塚薬報』1963年9月)

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