別府の花 第3回

クジャクヒバの存在

 再び別府を訪れた昨夜はザアザア降りの雨で困った。今はどうやら上がっているようだが、雲が重く垂れ、鶴見岳のあたりは一面に灰色のものに覆われている。しかし今日の天気は大丈夫だろうと占う。いや、さらに吉きことあれ今日の別府での仕事は、今から二十余年の昔、牧野富太郎氏が此の地に滞在した時の旅館を確かめなければならないのである。その旅館を捜し当てる鍵はただ一つである。クジャクヒバという樹がその庭にあること、それだけである。しかも、情無い事に、私はそのクジャクヒバというのがどんなものか、よく知らないのである。

  クジャクヒバ(ヒノキ科)――ヒノキの園芸品の一つ、いくらかの長枝が立ち、それに対する腋生の短枝が正しく対生して生じ、しかも細かく分枝するが、互いに重なり合わない為、極めて端正な外観をしている。この形を孔雀の尾羽の美しさにたとえたもの。チャボヒバの多少とも病的なのに比べて、伸び伸びとした感じで、通常芽立ちの時に葉緑素が欠けてあざやかな黄色を示し、後から次第に葉緑素の形成が行われ緑化する傾向を持っている。

 植物図鑑を開いてみるとこんな風に書いてあるが、まるで見当がつかない。仮に実物を目の前にしても、これではどうにもなりそうにない。

 

 昭和15年秋。牧野富太郎博士が、豊前の犬ケ岳で墜落受傷してから、先ずしばらくの間大分市の駅前旅館で療養し、その年の12月はじめ別府に移ったことは、前に記した大分県立図書館長(当時)小川直煕氏の書き残したものでほぼ明らかであるが、その後の別府での療養が何処で行われたかについてはまだはっきりしない点があった。

 その当時私は別府市内の某病院に勤めていたのだが、丁度牧野先生が来県され、大分博物学会が中心となって牧野先生指導の植物採集会をやるという広告を新聞で見て、この高名な学者の風貌に接しておきたいという言わば野次馬的な気持ちで、その大分県南部で行われた採集会に参加したことがある。先生がその直後に負傷されたので、この採集会に参加した人々に呼び掛けて見舞い金を募集する企てがあった。当時私もその通知に接したのだが、私はそれによって初めて先生の受傷と、先生が別府で療養中である事を知った。そしてその通知のあった旅館名を寿楽園と記憶しているのである。この寿楽園という名が印象にあるのは、当時私の住居がこの旅館のすぐ近くにあったからである。

 そんな近い所なのだから、すぐに一度でもお見舞いに行っておけば、後になって「さてどこであろう」などという必要もなかったのだが、何しろ門外漢の野次馬がただ一度採集会の後から従いて行っただけの身で、お見舞いに行ってよいものかどうか。こちらが名乗りを上げるのを聞くだけで、耳の遠い、まして療養中の先生は随分迷惑なのではないかと、妙な遠慮が私を躊躇させたのである。

 結局もう一度この碩学に親しく言葉を掛けてもらいたいと言う気持ちの方が勝って、寿楽園に出向いたのはもう大分日が経ってからであった。先生は既に発たれた後だったのか、あるいは外出中だったのか、取り次いだ女中の話も曖昧ではっきりせず、とにかくお目にかかることができないままに帰って、このお見舞いは目的を果たさなかったのである。しかしもちろん、牧野先生が寿楽園に滞在したことを疑うという気持ちは毛頭ある筈がなかった。

 ところで、最近になって此の頃のことを調べてみる気になり、この七月(注:昭和38年)別府に出向いた機会にも当時を知っている人を少しずつ尋ねて回ったのだが、その結果かえって私自身の記憶がアヤフヤになるのを感じた。誰も旅館をはっきり記憶する人がいないし、「寿楽園だと思うが」と言っても、「さア……」と疑わしい口振りである。中には「イヤ、確か紫雲荘だった」と言う人さえもある。

 紫雲荘というのは別府もかなり山手に当たる観海寺温泉にあるホテルである。現在熊本大学理学部長の野口彰博士は、その頃大分師範の教授で、大分でも別府でも、療養中の牧野博士を度々訪ね、時には一緒に別府の流川通りに牧野先生が原稿用紙を買いに行くのについて行ったこともあるそうだが、その話では別府療養当時は牧野先生も大分元気で、散歩もできるようになり、始終別府の別荘街を歩き、そのあたりの植物を調べ、ことに蜜柑類には興味を抱いておられたらしいとのことであった。

 この話から考えると、観海寺から流川通りまで散歩がてらに出るのは余りに遠すぎて、いかに元気とは言え、負傷後の先生にはどうかと思われるし、また当時の別府の別荘街というのは上田ノ湯の一角にあったのである。

 大分の辛島博士を訪ねた時に(前号参照)、牧野先生が別府滞在中に、たしか非常に大きなマーガレットがあるのを見つけ、そのことを雑誌に書いたことがあるはずだとの話を聞いた。後、調べてみると昭和16年(1941)3月発行の『実際園芸』の巻頭に園芸植物瑣談(其27)というのがあり、その中に『豊後別府でのマーガレット』という小みだしの一文が出ていた。

豊後別府でのマーガレット
  MargueriteならびにParis Daisy の俗名を有する。Chrisanthemum frutescens. L.(=Pyrethrum frutescens WILLD.)は和名をキダチカミルレあるいはモクシュンギクと言われ、今では我邦での温室では極めて普通の観賞植物となっており、また切り花にも用いられるので、誰もがよく知っている。これは元来アフリカ西北岸の北大西洋上にあるカナリア島原産の灌木様キク科品であるが、早くも園芸植物となっており、我邦へはけだし明治十年頃か、あるいはその後に、多分北米か、あるいは欧州から舶載せられたものであろう。明治十年発行の『小石川植物園草木目録』には、まだこれが載っていなく、明治十七年発行松村任三氏(当時東京大学助教授)編纂の『日本植物名彙』に初めてモクシュンギク、キダチカミルレ(松村氏命名)の名が見えている。次いで明治十九年発行の『帝国大学理科大学植物標品目録』にはキダチカミルレの名のみが記され、その翌年発行の『帝国大学植物園植物目録』にも同様キダチカミルレのみの名が用いてある。

 昨昭和15年12月、私は豊前別府市の常盤町なる富田嘉七君宅の土堤に植えてある見事なマーガレットを見たが、それはすこぶるよく成長したもので、幾株も並び接して繁茂しており、いずれも多数の枝椏を分かち、その各株の姿は表面平円形を呈し、冬季にもなお密に緑葉をつけ、遅れ咲きの白色残花がボツボツ花梗を立てて開いていたが、それは写真に見る通りである。

 右の叢をなせるその中の一本は、幹の太さ株本で周囲一尺八寸を算し、その根元から上三寸ばかりにして二つに分かれ、内部の一方はやや腐朽している。その分かれた枝の一方の物は周囲九寸四分、また一方のものは周囲七寸四分もあって、その全株の高さはおよそ四尺五寸もあろう。また他の一本は株本周囲九寸一分ばかりで、さらに他の一本は株本周囲六寸六分もあった。同地は気候が暖かなので、年数を経ればこんな太さに達するのである。なお九州は土地が暖かなゆえ、いずれかにはさらにこれよ  り巨幹のものがあるかも知れんと思わるれど、この別府のものも大してヒケをとらぬ大株ではなかろうかと想像する。


モクシュンギク(マーガレット)

 以上の記事に2葉の写真が挿入してあり、1枚はこの庭園の所有者富田氏から贈られた満開のマーガレットの写真であるが、もう1枚はその樹を背にした博士自身の姿で、それに昭和15年12月25日の日付と、撮影者川田十氏に対する謝辞が記してある。野口氏の話にもあったことであるが、これで見ても当時牧野博士はもう元気で、普通に歩き、植物の観察をしていたことが分かり、また一方、12月25日にはまだ別府に滞在中であったこともわかる。あるいは別府を引き上げる日が近づいたので、この写真を撮影してもらったと言うことであったかも知れない。

 さてこの巨大なマーガレットのあった別府市常盤町というのはどの辺りであろうか。明治の元勲、侯爵井上馨が若い時、重傷の身をここで養ったことがあり、後に自ら誌した千辛万苦之場という碑を立てた所が、今は別府公会堂になっているが、この公会堂のすぐ裏の通りが常盤町であり、これを僅かに北に進むと通町で、この通町はすなわち寿楽園の門の前の通りである。つまり寿楽園の門を出て数歩すれば常盤町で、牧野博士がマーガレットの大木をつぶさに観察し、また足を延ばして流川通りを散歩するにも寿楽園はまことに恰好の場所にあった。

 私の記憶から言っても、こういう周囲の状況から考えても、寿楽園滞在は間違いがないように思われるのである。が、当時でもあの付近にはいくつも他の旅館があった。すると上田ノ湯地区の他の旅館でなかったとも言えない。そこをもう少しはっきりさせたい。

 当の寿楽園に尋ねるのが一番早道なのだが、残念な事に、調べてみると寿楽園はもう廃業している。旅館組合なら何かわかるかも知れないと思って、一体いつ頃までやっていたのか、その当時の人は何処かにいないかと尋ねてみたが、これは全然駄目で、「わかりませんなア、古いことは言われてもしようありませんなア」の一点張りであった。

 そこで残った唯一の鍵がクジャクヒバということになったのである。現在南大分中学校教頭の羽田野正義氏は、昭和15年当時、大分師範の専攻生で、前記の野口氏の指導を受けていた。牧野先生がこの年の秋、広島での講義を終えて海路大分に到着、大分県南部の四浦半島や奥地に入った因尾村に植物を調査した時、若い羽田野氏は当時の大分県博物学会長山本義光氏等と一緒に先生に従いて歩き、佐伯では旅館も一緒であった。

 その旅館での印象は羽田野氏には非常に感銘深いものであったらしい。昼間、終日採集して旅館に帰ると、牧野先生はすぐに採集した標本の整理にかかり、夜半二時までやって倦むところを知らなかったと言うのである。また標本作製に使う大きな吸取紙の耳を切る為に常に専用の紙切り包丁を携行して、その紙を断つ手際の鮮やかさ、新聞紙二頁大の大きな紙を前にして別に寸法を計るわけでもなく目分量で切るのだが、どの紙も寸分違わぬ同じ大きさに切れていたとの話である。

 こんな話もあった。牧野先生が野外に行くときに必ずネクタイを結び、服装を整えるので、何か訳があるのですかと聞いた所、「恋人に会いに行くのだからね。身なりを綺麗にしなければ……」と答えられた。

 この羽田野先生が戦後の昭和26年頃、野口先生と一緒に東京の牧野邸を訪ねたことがあった。その時、別府療養中の話が出て、あの旅館の庭にクジャクヒバがあった。あの生本が欲しいから送って貰いたいとの依頼があり、大分に帰って後、挿枝を二十から三十本送ったはずであるという。この話は野口博士からも聞いたが、牧野先生は旅館に滞在中もこのクジャクヒバの標本を沢山作って、東京に持って帰ったが、さらに戦後になって依頼があって生本を送ったことがあったというのである。

 つまり、庭園にクジャクヒバのある旅館に先生は泊まっていたということであり、寿楽園の庭にクジャクヒバがあれば、先生の療養した旅館は確かに寿楽園であったと考えて良いのではないか。というのは牧野先生ほどの人が十余年を経た後にまた繰り返してその枝を望むとすれば、この樹はそうザラに何処にでもあるものではあるまい。上田ノ湯の他の旅館にも同じようにこの樹があったとは考えたくない。

 そこで今日は寿楽園跡を尋ね、クジャクヒバの有無を確かめようと思う。寿楽園は廃業して八幡製鉄の保養所になっている。堂々たる鉄筋三階建の巨大な建物が四辺を圧する趣で建っている今、寿楽園当時の庭園の何程かでも残っているだろうか。庭園が潰されていればたとえ昔の寿楽園にこの樹があったとしても、今は探すに由ないことになる。とにかく行って見なければ仕方のないことである。しかし雲の低い空と同じように私の気持ちも不安であった。

 結論は、ここにご覧に入れる怪しげな写真の通り、クジャクヒバは存在していたのである。しかしクジャクヒバが生き残ったについてはやはり僥倖があった。八幡製鉄は昭和17年ここを買収して職員のための温泉寮としたが、初めは旅館時代の建物をそのまま使用した。戦後になって旧い建物の大部分を取り壊し、鉄筋コンクリート建築にすることになったが、その時の予定では、東西に伸びる建物が敷地一杯に建てられることになっていて、そうするといま東の隅にあるクジャクヒバの樹はこれと並んでいる他のヒノキやヒバの類と一緒に堀取られてしまうはずであった。

 ところがちょうどこの樹の植えてある一画で、植木熱心な調理師の田中さんという人が、色々な木の苗を仕立てたり、盆栽や鉢物の棚を作っていたのである。ここだけはそのまま残しておこうと言う話になって、クジャクヒバは田中さんのおかげで残った。私も田中さんのおかげでクジャクヒバをこの目で見ることができた。勿論、私にはどれがクジャクヒバかわからなかったのであるが、それを教えてくれたのも田中さんである。

                         (南斗星、『大塚薬報』1963年10月)

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