[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」


花月記 第十三回

カーネーション

 5月12日。1か月も早い梅雨型の前線が日本列島の上に低迷して、ここ1週間程降り続いた雨が、今日は少し晴れ間を見せたが、まだ雲が暗い。5月の第2日曜日、「母の日」である。

 母の日にカーネーションを胸につける習慣は、アメリカ西ヴァージニアの山麓の街ウェブスターの敬虔な女性アンナ・ジャーヴィスが、亡き母の追悼祈祷会にこの花の一箱を捧げたのが始まりだと言うが、1907年に始められたこの行事は、1914年には全世界にひろがっていた。そしてわが国でも、「赤い花は母の健康を祈り、白い花を亡き母の思い出に」というこの行事が、年毎に盛んに行われている。

 なぜこの花が母に捧げられたのか、その理由は詳かにしないが、もともとカーネーションは、西洋文明の揺籠時代から神聖な花とされていたらしく、その学名である Dianthus はギリシャ語の Dios(神)と Anthos(花)を組み合わせてできたものである。この思想はキリスト教時代に入っても受け継がれたらしく、中世以降においても、この花は教会の花とされていた。

 元来カーネーションは南ヨーロッパの原産で、ギリシャでは早くから栽培されていたが、これがヨーロッパ各地に広がったのはノルマン民族の活躍と深い関係がある。史上に名高いヨーロッパの民族大移動というのは、ご承知の通り、4世紀のフン族のヨーロッパ侵入を契機として、中央ヨーロッパの暗い森林地帯を彷徨していたゲルマン諸民族がその故地を追われて、ヨーロッパの南と西に広がる明るい平野を目指して大挙して移動し、そこで東西ローマ帝国との間に抗争軋轢を繰り返し、ゲルマン族の諸王国を打ち立てたが、やがてはキリスト教文化の中に融合されて、中世ヨーロッパの基礎を作り上げた事実を指す。

 その後になっても、ヨーロッパ諸族の間にはいろいろな形で移動侵略が行われている。その中でも、初期の民族移動に取り残されて、スカンジナビア及びデンマーク地方にいたゲルマンの一部族が、優れた航海技術と精悍な資質に恵まれて、九世紀始めから三世紀の間にわたって、ヨーロッパの北部海岸地帯から、南は地中海沿岸を掠め、次第に内陸地方に侵攻したのが最も著しいもので、これを第二次民族移動と呼ぶ人さえある。この海賊民族が即ちノルマン族で、ノルマンは北から来る人を意味し、中世フランクの人々がこの異民族を指して呼んだ言葉である。

 彼等自身は自らヴァイキングと称した。入江を意味する彼等の言葉ヴィクから出たもので、つまり入江の人である。彼等はその名の通り、北ヨーロッパのフィヨルド(峡湾)を根拠地として、全ヨーロッパを馳駆した。デンマークを故郷とする一部族デーン人は、まずイギリスを侵略し、アイルランドを掌中に収めていたし、またノールウエーから出てフランク王国の北辺に侵入して、セーヌ河下流およびロアール河口地帯を手に入れた一族は、酋長ロロを戴いてノルマンジー公国を建てた。現在フランスの西北部にあってノルマンジー地方と呼ばれる辺である。

 この地方に定着したノルマン人は、さらに南下して地中海方面にも出没したが、特にキリスト教文化の浸透とともに、南イタリアの聖地を慕って、次第にこの方面に進出定住するものが多くなり、十一世紀の後半にはサラセン人を逐って、南イタリアおよびシシリーを併せ統治するシチリア王国を築いた。

 一方では、同じ頃ノルマンジー公ギョーム(英語ではウイリアム)が、イングランドの王位継承権を主張してイギリスに侵入し、ヘースチングの戦いでイギリス王室軍を撃破し(1066)アングロサクソン系の王エドワード三世の後を継いだハロルドを殺して王位に就き、ノルマン王朝を始めた。歴史上有名なノルマンのイングランド征服である。

 カーネーションはこのノルマン人に愛され、ノルマンの果敢な移動に常に伴われて地中海岸からヨーロッパにもたらされ、中部ヨーロッパに広がり、次いでイギリスにも入ったという次第である。

 

 この時代のカーネーションは現在のような沢山の園芸品種があったわけではなく、肉色単弁のものばかりで、カーネーションという名称もラテン語の肉(Carro Carnis)が語源だと言われるくらいである。種々の園芸品が作られ観賞されるようになったのは、はるかに下って16世紀に入ってからと言われ、当時桃色、赤、白の品種が作り出されたというが、ルイ14世時代になるとすでにたくさんの栽培品種があり、ヴェルサイユ宮殿の庭園には300種以上のカーネーションが集められていたという話だ。

 金髪白晢、丈高く、死後の再生を信じて怖れを知らぬ、この北方の海賊達が、優美なカーネーションの運搬者であったというのは、いかにも面白い取合わせではないか。

 日本では徳川時代の正保から寛文の間に渡来したと言われるが、これは17世紀の半葉で、徳川家光から家綱の時代、由井正雪の乱や振袖火事の頃に当たり、西洋でいえばフランスの太陽王ルイ14世の治世の始まり頃に相当する。はじめアンジャベルという名で呼ばれていたが、これはオランダ語の Anejelierが訛ったのだそうだ。植木屋言葉ではさらにこれを略してアンジャと呼んだということだ。オランダセキチクとかオランダナデシコという名も用いられた。

 カーネーションは誰が見てもわかるようにセキチクやナデシコと極く近縁のものである。いずれも円筒形で先端五裂した萼があり、萼の下には数辺の小苞がある。花びらは五片、雄しべは五、花柱は二。しかし非常に多くの園芸品があり、間種がある。

 花びらの多い温室カーネーションの花を崩して見ると、その花びらの中には萼に似た帯緑色小型のものがあったり、あきらかに雄しべから変化したと思われるように花弁の下部の花爪と言われる細い部分が全く花糸と同様なもの、一部に花糸の遺残と思われるものを付着したものなどがいろいろある。花柱もまた必ずしも2個ではない。

 とにかく、植物の花が葉から変わってきて、雄ずいや雄しべや花弁がお互いに移行するものだ、ということが如実に分かる。そうかといって、そんな変化が全く出鱈目に起こるものではないらしい。八重咲きのカーネーションでは外側の花弁は5枚が各々二つに分かれて10枚。5本ずつ2列になっている10雄しべの外側の5本は5の倍数の10、15、20、25等の花弁になり、内側の5本は不規則に花弁に変化するのだということが或る本に書いてある。

 (南斗星、『大塚薬報』1963年6月号所載)

表紙へ戻る